京都(その2)

京に芙蓉・萩・百日紅を訪ねる

(その1)
→梨木神社→本満寺(山中鹿之助の墓)→大聖寺→妙蓮寺→智恵光院→慧光寺→立本寺(島左近の墓)→法輪寺→【阪急 西院駅】

2014年09月20日 晴れ 32,555歩



梨木神社

鳥居
〔京都市上京区染殿町〕



拝殿


本殿と萩の花























本満寺

正式寺号は「広宣流布山本願満足寺」と称し、応永17年(1410年)に玉洞妙院日秀により創建。後に徳川8代将軍 吉宗の病気平癒を祈ったところから将軍家の祈願所となっている。境内墓地には戦国武将「山中鹿之助」の墓がある。また境内には均整の取れた形の良い枝垂桜が植えられている 〔京都市上京区染殿町〕

 
山門前の「本山 本満寺」 ・ 「山中鹿之助幸盛卿之墓」標石


本堂


本堂前に咲く酔芙蓉





山中鹿之助の墓
(本満寺 境内墓地)






 


山中鹿之助幸盛は山陰 尼子家の家老の次男で幼い頃より武術に秀で、毛利家の武将を一騎打ちで討ち取り、「山陰の麒麟児」と呼ばれ「尼子十勇士の一人」に数えられている。鹿之助は尼子家の再興のために“願わくば我に七難八苦を与えたまえ”と祈ったと伝えられる。しかし最後には毛利家によって捕らえられ、殺害されたといわれている
鹿之助の息子 山中幸元(鴻池新路六)は武士の身分を捨て、摂津 鴻池村で酒造を起こし財を成しその後大坂で鴻池財閥の祖となった



境内の枝垂桜
満開の時の様子は【こちら】




大聖寺
(だいしょうじ)


山門
御寺御所とも呼ばれる門跡寺院で隠れた萩の名所となっている、三大将軍 「足利義満」は この地に室町幕府の「花の御所」を造営した 〔京都市上御所八幡町〕



「花の御所」の石碑



前庭に咲く萩














地面を這うまでに咲き誇る萩


第27世・「花山院慈薫尼」の歌碑

“九品仏 慈悲の目の 変わらねば
いづれの御手に 吾はずがらむ”




玄関車寄
後方の赤レンガの建物は同志社大学の「寒梅館」




妙蓮寺

山門前に咲く芙蓉
〔京都市上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町〕


 









本堂前に咲く芙蓉























庫裏


鐘楼








智恵光院

山門
〔京都市上京区智恵光院通一条上ル智恵光院前之町〕



本堂
本堂前には百日紅と萩が咲く



白い萩


芙蓉も少し咲いている





慧光寺(えこうじ)

山門
〔京都市上京区浄福寺通一条上ル笹屋町〕



境内 本堂前の大イチョウ


本堂


明神堂、七面大明神を祀る


本堂扁額 ・ 明神堂扁額


境内前庭
芙蓉の花が満開である












立本寺(りゆうほんじ)

山門
日像により創建された妙顕寺が始めとされる。その後、寺地を転々とするが宝永5年(1708年)の「宝永の大火」後に現在の地に移され再建された。妙顕寺・妙覚寺と合わせて「龍華の三具足」と呼ばれている。境内には石田三成の軍師であった島左近の墓がある 〔京都市上京区七本松仁和寺街道上一番〕



本堂


刹堂(鬼子母神堂)


祖師堂


鐘楼


島左近の墓
(立本寺 境内墓地)


 





 


正式名は「島清興(きよおき)」と称し、軍師として石田三成に仕えた。関ヶ原の合戦では笹尾山に陣取る石田三成の先鋒として山の麓に陣取った。
合戦では西軍の敗北を知り、もはやこれまでと左近は死を覚悟し黒田長政・田中吉政軍に突入し徳川家康の旗本まで迫ったが黒田軍の銃撃により見事に討死したとされる




法輪寺(達磨寺)

山門
〔京都市上京区下ノ下立売通紙屋川畔〕



山門と芙蓉の花


方丈


衆生堂


達磨堂


達磨石像


達磨の絵馬




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