膳所・京都

【阪急 河原町駅】→大雲院(祇園閣)→八坂庚申堂→智積院→法住寺→柳原銀行記念資料館→ドクターイエロー→【JR京都駅】==【JR膳所駅】→義仲寺

2014年08月05日 晴れ 19,109歩



織田信長 ・織田信忠 ・石川五右衛門 ・
松尾芭蕉・源義仲・巴御前の墓を訪ねる




大雲院

山門 〔京都市東山区祇園町南側〕
天正15年(1578年)に第106代 正千親町(おおぎまちてんのう)の勅命により、織田信長・信忠父子の菩提を弔うために創建。 寺号の「大雲院」は織田信忠の法名“大雲院殿三品羽林仙厳大居士”から取ったものとのこと。 境内には祇園祭の鉾をイメージした建物「祇園閣」と織田信長・信忠 父子や石川五右衛門の墓がある。


本堂(本尊は阿弥陀如来)


鐘楼と梵鐘
鐘楼は豊臣秀頼が北野天満宮に寄進、梵鐘は島津家から現在の八坂神社に寄進されたもので神仏分離令によりここ大雲院に移されたとのこと。






涅槃像



祇園閣

祇園祭の鉾をイメージした建物で、大倉財閥の創始者「大倉喜八郎」の別邸として昭和3年(1928年)に建てられたもの。 元は金閣・銀閣に続き「銅閣」を建てるつもりで造られたといわれる。 高さ36mの3階建てで登録有形文化財に指定。

















墓地入口




墓地入口の地蔵石仏


織田信長・信忠の墓









右に織田信長、左に信忠の法名が刻まれている。 織田信長・信忠の墓は寺町通りの「阿弥陀寺」にもある。 阿弥陀寺の墓は【こちら】



石川五右衛門の墓








市中引き回し釜茹での刑となったあと貞安上人によってここに埋葬された。



八坂庚申堂

山門
正式寺号は「大国山延命院金剛寺」と称すが、地元の人々からは「八坂の庚申さん」と呼ばれ親しまれている。 八坂庚申堂は日本三大庚申
の一つとされている。 〔京都市東山区下河原町八坂鳥居前下〕

:他に「大阪四天王寺庚申堂」、「東京入谷庚申堂(現存せず)」がある



本堂(庚申堂:本尊は青面金剛)
左手前には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)堂がある



本堂(庚申堂)扁額


賓頭盧尊者堂
小堂には色とりどりの布で作られた“くくり猿”
がぶら下げられている。

:猿を人間に喩え、欲望のままに行動することを手足を縛ることでによって諭したものとのこと。 本堂前に置かれた三猿(さんえん)と共通すろものがある。



賓頭盧尊者


くくり猿
奥の本堂内にも多くの“くくり猿”がぶら下がっている。



本堂内の三猿とくくり猿
見ざる・言わざる・聞かざる



くくり猿


境内の石仏



軒先の“くくり猿”

庚申堂の近所の町屋や店舗などの軒下には傘をさした“くくり猿”がぶら下がっている。



智積院

山門(冠木門:かぶきもん)
根来山大伝法院(和歌山県岩出市)の塔頭で、根来山内の学問所であった。 天正13年(1585年)の豊臣秀吉の根来攻めによって大伝法院から高野山に逃れた玄宥僧正は、関ヶ原の合戦後に徳川家康からこの地を与えられ寺号を「五百仏山 根来寺」として再興させたのが始めとされる。 真言宗智山派である成田山 新勝寺、川ア大師 平間寺、名古屋 大洲観音、八王子 高尾山薬王院などの大本山となっている。 〔京都市東山区東大路七条下東瓦町〕



本堂前参道
広大な境内には季節により色とりどりの花を咲かせる、春には梅・桜・ツツジ、夏には紫陽花・蓮・桔梗・百日紅、秋には紅葉などで、拝観者も少なく隠れた“花の寺”となっている。



本堂(金堂)


明王殿と蓮池


鐘楼


境内に咲く百日紅





光明殿



法住寺

山門
創建は平安中期の永延2年(988年)に太政大臣 藤原為光による。 その後、後白河上皇の御陵を守護する寺として存続した。 山門の横には後白河上皇の御陵の入口門である「龍宮門」がある。 〔京都市東山区法住寺三十三間堂廻り町〕



龍宮門(旧御陵正門)
境内の東側には後白河上皇の御陵がある。



「旧御陵正門」碑


本堂


境内に咲く芙蓉





境内に咲く芙蓉と桔梗



京都国立博物館


博物館前に咲く百日紅







鴨川 七条大橋

大正2年(1913年)建造


下を流れる鴨川


「土木学会選奨土木遺産 七条大橋」のプレート




高瀬川 七条橋




柳原銀行記念資料館

資料館入口
左の石碑は「桜田儀兵衛 顕彰碑」。 〔京都市下京区下之街町〕



柳原銀行記念資料館 正面
明治32年(1899年)に柳原町(現在の崇仁:すうじん)の町長 明石民蔵らによって設立された銀行。 後に「山城銀行」と改称したが、昭和2年(1927年)に金融恐慌ににより倒産した。 平成9年(1997年)から「柳原銀行記念資料館」として資料展示などが行われている。












桜田儀兵衛 顕彰碑

天保3年に銭座跡村に生まれ、明治6年(1873年)には柳原庄の戸長(町長・村長)となり、柳原小学校の校舎新築・村内の貧困者の救済・コレラ流行時には村内の大掃除を行い予防につとめるなど、地元の改善・向上に尽力した。



銭座場跡

「銭座場跡」碑
元禄13年(1700年)から、この地において「寛永通宝(萩原銭)」を、宝永5年(1708年)には「宝永通宝(大銭)」が鋳造されていた。





旧高瀬川に架けられていた橋の親柱



新幹線「ドクターイエロー923形」

京都駅に向かう途中、目前の高架線路に黄色いものが横切る、とっさにカメラを向けシャッターを切る、なんとか間に合ったようである。 ドクターイエローは正式名称を「新幹線電気軌道総合試験車」といい、初日は東京から博多へ翌日は博多から東京に戻る点検スケジュールとなっている。 基本的に点検は10日に一回で繰り返され時刻表には載らない運用となっているため、ドクターイエローを見ると幸せになると言われている。



JRで【京都駅】から【膳所駅】に移動



JR膳所駅




義仲寺

山門(山門脇には巴地蔵堂がある)
源頼義仲(朝日将軍 木曽義仲)
の側室である巴御前が義仲の菩提を弔ったのが始めと伝えられる。 また松尾芭蕉は琵琶湖をこよなく愛し度々この寺を訪れて句会を催したといわれる。 〔滋賀県大津市馬場〕


朝日堂(本堂)


朝日堂 扁額


翁堂


翁堂 扁額


翁堂軒下の魚板


堂内 芭蕉翁像


堂内の伊東若冲画
翁堂花卉(かき)天井図



翁堂花卉(かき)天井図


堂内窓



木曾義仲の墓








源頼義仲は平家討伐のために都に入るが源頼朝の命を受けた源範頼・義経の軍勢に追われ、この地 粟津ヶ原で討死した。



巴御前の墓








芭蕉句碑


旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる

芭蕉が亡くなる4日前に詠まれたといわれる



芭蕉の墓








芭蕉は大坂の花屋仁左衛門の離れ座敷で亡くなったが、芭蕉の生前の遺言によりここに葬られたとのこと。



つるべ井戸


芭蕉と百日紅
境内には芭蕉ゆかりの寺らしく芭蕉の木が沢山植えられている




義仲寺 資料館にて

木曾義仲像


木曾義仲像(右)と今井四郎兼平(左)


芭蕉翁像


芭蕉翁像


芭蕉翁の“椿の杖”


伊東若冲画 翁堂花卉(かき)天井図



巴地蔵堂

義仲寺山門脇の巴地蔵堂


巴地蔵堂 扁額


巴地蔵尊




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