八幡

木津川 流れ橋

【京阪 八幡市駅】→法園寺→御園神社→石田神社→善照寺→伊佐家住宅→流れ橋→平井神社→平川廃寺跡→久津川車塚古墳→【近鉄 久津川駅】・・・・・京都タワー

2013年08月27日 晴れ 27,085歩



法園寺
(ほうおんじ)


健保4年(1216年)に石清水八幡宮の別当 田中宗清によって創建されたと伝えられ、法園寺の寺号がは、この辺りが石清水八幡宮の野菜の耕作地であったからと言われている。 本尊は釈迦如来像(鎌倉時代)で重文に指定されている。〔京都府八幡市八幡源氏垣外〕


本堂
昭和9年(1934年)に台風によってお堂が倒壊したため、今はコンクリートの収蔵庫のような建物となっている。



境内の入口に並ぶ仏達



木津川左岸の土手道を行く




木津川越に遠く愛宕山を望む


木津川大橋(国道1号線)



御園神社
(みそのじんじゃ)

 
延歴6年(787年)に桓武天皇が狩猟でこの地に立寄った際に神託があり、奈良 春日大社から分霊を勧請したとされる。 このため境内入口の社号標石には京都にも係わらず「奈良御園神社」となっている。 また地名にも“奈良”が付いている。〔京都府八幡市上奈良御園〕

 
境内入口鳥居
「文政5年」(1822年)の銘が刻まれており、現在の本殿は元禄14年(1701年)に再建されたものとのこと。



拝殿


本殿覆屋


極彩色に彩られた本殿


本殿装飾(1)


本殿装飾(2)



木津川 流れ橋を望む

久御山(くみやま)町側(左)
八幡(やわた)市側(右)




石田神社

境内入口鳥居
大宝2年(702年)の創建、傍を流れる木津川の氾濫による疫病封じのため素戔嗚尊を祀ったのが始めとされる。 境内には南北朝時代の十三重石塔が建つ。 元弘元年(1331年)の「元弘の乱」では笠置山に出陣する楠木正成が戦勝祈願をしたと言われる。〔京都府八幡市上津屋里垣内〕



拝殿


本殿


本殿木組


絵馬


十三重石塔(南北朝時代)


石塔一層目の浮彫り石仏



善照寺

山門 〔京都府八幡市上津屋浜垣内〕


本堂


鐘楼


本堂前に咲くサルスベリ



伊佐家住宅(重文)

江戸時代中期の民家で、伊佐家は代々幕府領地の庄屋を勤めていたとのこと。 母屋は茅葺屋根となっており、周囲は石垣と濠で囲まれ、木津川から直接舟で乗り入れることが出来たとのこと。〔京都府八幡市上津屋里垣内〕


母屋


土蔵


堀跡



石田神社御旅所







木津川 流れ橋

正式名称は「上津屋橋」と言う


73基ある橋脚に載せられた橋脚は10基づつほどワイヤーで繋がれており、大雨で木津川の水位が上昇した際には、橋桁が筏のように浮かんで流れる構造になっている。 流れてもワイヤーで繋がっているため流失はせず、橋にも大きな力が掛らないため橋脚などの損壊も少なくて済む。 このため「木津川の流れ橋」と呼ばれ、時代劇の撮影にも良く使用される。 偶然にも 今日は 刀に、ちょんまげ姿の集団がロケをしているようである。 しかし、20日後の9月16日の台風18号による木津川の増水で「流れ橋」は流された、その時の様子は【こちら】


八幡市側から対岸の久御山町側を見る





橋桁の下にて


橋脚の下の部分は大分損傷が激しい








橋の上から見る木津川


橋桁がそれぞれ10基づつほどワイヤーで繋がれている。 橋桁と橋桁の間はワイヤーに少しゆとりをもたせている。


橋を渡り、久御山町側から対岸の八幡市側を見る


八幡市側の橋詰には茶畑が広がる



時代劇のロケーション撮影










平井神社

境内入口鳥居
素戔嗚尊他の三柱が祀られている。〔京都府城陽市平川東垣外〕



拝殿


本殿
江戸時代初期 正保2年(1645年)建設






本殿 装飾








道明寺




近鉄 久津川駅

駅前を通過し、踏切を渡り東に「平川廃寺跡」に向かう



平川廃寺跡

伽藍配置は西に塔、東に金堂が並ぶ「法隆寺式」であるが講堂や中門は確認されていないとのこと。 また、出土した瓦から創建は奈良時代中期と言われる。〔京都府城陽市平川古宮〕





塔跡


金堂跡



久津川車塚古墳

5世紀前半に築造された前方後円墳で、墳丘長180m、二重の周濠を含めると全長272mの南山城では最大級の古墳である。〔京都府城陽市平川車塚〕


墳丘部(1)


墳丘部(2)



近鉄 久津川駅に戻り、近鉄で京都駅へ



京都タワー

高さ131mで昭和39年(1964年)、京都市内では一番高い建物となっている。 海のない京都市であるが燈台をイメージしたものとのこと。






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