奥琵琶湖・敦賀

【JR永原駅 レンタサイクル

⇔菅浦
【JR永原駅】===【JR敦賀駅】
→気比神社→金崎宮→敦賀赤
レンガ倉庫→敦賀ムゼウム
→鉄道資料館→晴明神社
【JR敦賀駅】

2017年08月05日 曇り 21,233歩

土足禁止の須賀神社



JR永原駅

須賀神社神社のある菅浦までは
約8kmほど、バスは1日に数本し
かないため
永原駅でレンタサイ
クルを借りるレンタサイクルの利
用は初体験だ



 
 レンタサイクル、沖に見える島は
竹生島。
滋賀県道513号線(奥琵
琶湖パークウェイ)を
サイクリング
8月の猛暑の中、湖(うみ)から
の風が心地よい



菅浦の集落

遠くに菅浦の集落が見え始めた、
菅浦は琵琶湖の北に位置する葛
籠尾崎(つづらおざき)の先端にあ
り街道からも遠く、離れており隠れ
里と呼ばれていた。しかし現在は
奥琵琶湖パークウェイが通ってい
る。この地には奈良時代 恵美押
勝の乱で廃位となった淳仁天皇
が幽閉され憤死したとの伝説が残
っており須賀神社の裏山には淳
仁天皇の御陵といわれる塚が残
されている。しかし淳仁天皇は廃
位後には淡路国(淡路島)に流
され、その御陵は兵庫県南淡路
市賀集“淡路陵”に治定されてい
る【下の写真】

淳仁天皇 淡路陵
(兵庫県南淡路市賀集
2016年12月7日撮影)



菅浦集落 西の四足門

ゆっくりと撮影しながらのサイクリ
ングであったが50分ほどで菅浦
に到着。この四足門は湖岸沿い
に東西に延びる菅浦の集落の西
の入口にあり集落の境界としま
た守りの要所としたようである、
現在同じものが集落の東端にも
ある。近年までは集落の東西南
北にあったとされ“四方門”とも
呼ばれている


須賀神社
 
 参道入口第一鳥居
と菅浦郷土資料館
鳥居をくぐると300m余りの参道の
上り坂が続く


ここから土足の参詣禁止

石段の上には拝殿が見える
ここから先は神域の清浄保持
のために土足禁止のようであ
る、手水舎には土足禁止の表
示がありスリッパが置かれて
いる


 
手水舎・土足禁止

 
スリッパの棚
スリッパを履いて石段を登る



本殿と拝殿

 
 菊の御紋入り賽銭箱・本殿裏の
石積み
、この石積みは淳仁天
皇の御陵の塚か?



大イチョウ

神社前 樹高30mのイチョウの大木


集落の東の端を望む

“菅浦の湖岸集落景観”として国の
重要文化的景観に指定されている



嵐の時に琵琶湖の大波から民家
を守ろための石垣が積まれ美し
い景観をかもしだしている


 
嵐の時にはこの溝に板をはめ
込むようである(左の写真)



集落の東側から
集落の西の端を望む




東の四足門

集落の東の端の四足門


湖岸から少し離れた
道を西に戻る

 
 古い土壁の小屋・鹿の骨(厄除?)

 
ヤンマー家庭工場 第18
作業場・菅浦の家並



安相寺
 
浅井長政所縁の寺、天正元年
(1573年)小谷城の落城の際
に長政の子 万菊丸が逃れて
きたとの伝説が残されている



阿弥陀寺
 
参道石段・阿弥陀寺々号標石


本堂


淳仁天皇菩提寺
長福寺跡

 
標石の脇には五輪塔が建って
いる、淳仁天皇の供養塔か?



ヤンマー家庭工場
 
 第3作業場・第11作業場
菅浦の集落には、かつて20カ所の
作業場「ヤンマー菅浦農村家庭工
場」があり、通勤の必要ない勤務
体系として画期的なものであった
とのこと現在も数カ所現存している
【現地説明版参考】



菅浦の家並
 
かつて小学校でも在ったのか?今
は珍し二宮金次郎像が立っている



永原駅への帰り道にて
 
湖岸風景・丸子舟のモニュメント


丸子船の館
 
 丸子船の館・大浦ふるさと資料館
右の資料館は丸子船の館の隣に
ある、明治時代の民家で昔の生
活用具・農耕具を展示している



展示室内の丸子船
琵琶湖の水運に使用されてきた
この地方特有の帆船で舷側版に
半丸太を用いて船体の強度を増
している。現存する丸子船2隻の
内の1隻とのこと



JR永原駅

初めてのサイクリングも無
事終了し自転車を返却




JRで永原駅から
敦賀駅に移動




JR敦賀駅


 
都奴賀阿羅斯等像と
心の旅 敦賀への道像



銀河鉄道999モニュメント
 

  
敦賀駅前のメインストリートには
銀河鉄道999のブロンズ像が立
ち並んでいる。敦賀が鉄道と港
の街であり、松本零士の作品で
ある銀河鉄道(鉄道)・戦艦ヤマ
ト(港)と相相通じるものがある
とのこと? 道路の反対側には
「宇宙戦艦ヤマト」のブロンズ像
が並んでいる



気比神宮
 
 本殿前の中鳥居・境内入口灯籠
大宝二年(702年)の創建気比大
神 ・仲哀天皇 ・神功皇后を始め
とし7柱の祭神を祀っており北陸
道の総鎮守とされている。境内入
口の大鳥居(日本三大鳥居・重
文)は現在改修中のようである



外拝殿


お砂持ち神事の像

西安三年(1301年)遊行上人が
敦賀に立ち寄った際に、気比神
社参道前の泥沼を嘆き、浜から
砂を運び道を作ろうとした。それ
を見た人々は参道の改修に協
力したとのこと。今もこれになら
い神事として行われているとの
こと。銅像は気比神宮大鳥居前
にたてられている
【現地説明版参考】



天満神社
 
鳥居・拝殿

 
本殿には日光東照宮を模したとい
われる精巧で華麗な彫刻が施さ
れている



旧敦賀港線(金ケ崎線)の廃線跡
 
金ケ崎宮への途中JRの線路を渡
るが今は踏切もなく線路側に柵が
設けられている。右の写真は鉄道
桟橋跡


旧敦賀港駅(金ケ崎駅)
ランプ小屋



 
明治15年(1882年)に建てられた
ランプ小屋で内部には気車用の
表示ランプ(赤・緑)や灯油が保
管されていた


 
この赤と緑のランプを汽車の前後
に付けてその組み合わせで汽車
の種類を示した。例えば中央に赤
ランプ1個は通常旅客列車、右に
緑・左に赤は通常貨物列車、左右
とも赤は臨時旅客列車等とのこと



金前寺
(こんぜんじ)

 
本堂
天平八年(736年)に聖武天皇の
勅願により創建、縁結びの「袴掛
観音」ととして信仰を集めている


 
芭蕉句碑 “金塚”(金前寺本堂裏)
「奥の細道」の旅で敦賀に立ち寄
った際に芭蕉が詠んだ俳句、南北
朝時代の金ケ崎の合戦で敗北した
新田義顕(よしあき)が海に沈めた
陣鐘を詠んだ句

“月いづこ 鐘は沈るうみのそこ”



金埼宮
(かねがさきぐう)
 
 参道石段・境内鳥居


拝殿
金ヶ崎城の麓に鎮座し、祭神とし
て恒良親王と尊良親王が祀られ
ているソメイヨシノが植えられ春は
桜の名所となっている。明治23年
(1890年)創建のまだ新しい神社
である。


 
  本殿・絵馬


参道から望む
敦賀の町並み


中央の建物は赤レンガ倉庫


参道から望む敦賀湾



尊良親王御陵墓見込地
(たかよししんのう)

 
後醍醐天皇の皇子尊良親王は
金ケ崎の合戦で新田義貞の子
新田義顕とともに金ケ崎城に立
て籠もり足利軍と戦うも力尽きこ
こで自害したと伝えられる



金ケ崎古戦場跡



月見御殿

ここは金ケ崎の最高点(標高86m)
で南北朝時代には金ケ崎城の本丸
が在ったとされ、ここから月見をした
のでこの名がついた



赤レンガ倉庫

明治38年(1905年)石油の貯蔵庫
として建設、現在は鉄道「ジオラマ
館」・「レストラン」として利用され国
の有形登録文化財に指定



赤レンガ倉庫の裏側

 
 通気口窓・レンガ塀


敦賀ムゼウム

敦賀港には大正9年(1920年)に
シベリアで救出されたポーランド
孤児や昭和15年(1940年)には
杉原千畝が発給したビザによっ
て救われたナチスドイツからのユ
ダヤ人難民が上陸したところで、
ここにはこれらの資料が展示さ
れている。「ムゼウム」とはポー
ランド語で「資料館」のこと





金ケ崎緑地の
レンガ通路と時計台


中央奥に見えるのは敦賀
鉄道資料館(旧敦賀港駅)



巡視船「ほたか」

敦賀海上保安部所属
巡視船「ほたか」
全長50m、総トン数220トン
20mm機関砲を装備



旧 敦賀港駅舎
(敦賀鉄道資料館)


かつて金ヶ崎の鉄道桟橋に
あった敦賀港駅々舎をここ
金ヶ崎緑地に再現


 

 
 1階展示室・2階展示室


敦賀倉庫群

昭和8年(1899年)竣工
昭和レトロ雰囲気が今も漂う


旧 大和田銀行本店
(敦賀市立博物館)


昭和2年(1927年)に大和田銀行
本店として竣工その後、三和銀
行敦賀支店、福井銀行敦賀港
支店をへて現在は敦賀市立博
物館となっている


 

 


晴明神社


 
平安中期に陰陽師として活躍し
た安倍晴明(921年~1005年)
が、海外からの文化の窓口で
あったここ敦賀で過ごし陰陽道
の研究に励んだと伝えられる





inserted by FC2 system