美作・佐用

【智頭急行 大原駅】→大原宿→
讃甘神社→武蔵生誕地→武蔵神社
→一貫清水→
【智頭急 宮本武蔵駅】
===【智頭急 平福駅】
→平福宿→
武蔵決闘の地→
【智頭急 平福駅】

2017年01月04日 晴れ 26,228歩

武蔵の里



JR・智頭急行佐用駅

佐用駅にてJRから
智頭急行に乗り換え



駅前の笛を吹く少女像「星の旋律」


JR線 佐用行(左)から智頭急行大
原行(右)に乗り換える。JR線
(姫新線),智頭急行線共に非電化




智頭急行大原駅

大原物産館が併設されている


因幡街道「大原宿」を南に行く
(いなばかいどう)
         



美作市マンホール
「美しい自然と水 武蔵の里」
2本の刀(二刀流)が
デザインされている




三九郎稲荷

三九郎稲荷に立ち寄る



“寿”の字のある土蔵




脇本陣

通常は「米屋」の屋号を持つ旅籠と
して営業していた、大原宿で長屋
門を有する建物はここだけとのこと
(文政年間1818~1830年建設)




古い町並が続く

右手前は酒蔵「田中酒造場」



田中酒造場

大原宿の典型的な民家


2階の屋根の「煙出し」と
出桁造り(だしげたつくり)



袖壁「火返し」、関西では
「うだつ」と呼ばれる(左)
「虫籠窓と「なまこ壁」(右)



酒蔵を示す杉玉(左)



大原宿の古い町並が続く




美作市消防団




古い洋風建築

旧中国銀行大原支店の建物、現在
は司法書士事務所となっている




本陣

(寛政年間1789年~1801年建設)



石碑と道標
 
「三界萬霊」の碑(左)
道標「是より右 津山道」・「是
より左 播磨ひらふく道」(右)




大原教会




道標

道標「左 山崎・右 平福 道」(左)
なまこ壁の民家(右)




火伏のまじない

1階の屋根の隅には「水」の
字が、火伏のまじないか?



讃甘神社への道




宮本武蔵ゆかりの
讃甘神社
(さのもじんじゃ)

宮本武蔵の生家跡の隣に位置し、
武蔵が幼年のころ祭で太鼓を打つ
両手のバチから二刀流を思いたっ
たといわれる



拝殿


門松 ・ 本殿



武蔵の里

武蔵資料館 ・ 武蔵道場


宮本武蔵像



宮本武蔵生誕地碑
 
明治44年建立
なお兵庫県太子町宮本にも生誕地
と伝えられる井戸がある




宮本武蔵生家跡

かつては茅葺きの家で道場も在っ
たと伝えられる。武蔵は天正12年
(1584年)に生まれ、父は武術家
の平田無二(無二斎)、13歳でここ
から南に8km程の平福の地で新当
流 有馬喜兵衛に勝利し、29歳で佐
々木小次郎に勝つまで60余回の決
闘で一度も負けたことはなかった




平尾家住宅

武蔵の姉“おぎん”嫁ぎ先
武蔵の生家のすぐ近くにある



茅葺きと瓦葺きの屋根 ・ 井戸



武蔵神社

参道鳥居 ・ 境内鳥居
昭和46年に地元の有志によって
平田家の墓地近くに建立された



拝殿


本殿(左)
「戦気 寒流帯月澄如鏡」碑(右)
(せんき かんりゅう つきをおびて
すむこと かがみのごとし)
武蔵が好んだ唐の詩人「白楽天
(白居易)」の詩。字は武蔵直筆
を刻んだとのこと



武蔵の絵馬


左:武蔵の墓
右:父平田無二、母 お政の墓
奥には武蔵神社が鎮座



佐々木小次郎他60余名
の決闘相手の供養塔




壱貫清水への道
(鎌坂峠方面)




森岩彦兵衛の墓

武蔵の竹馬の友で、彦兵衛が関
ヶ原の合戦に向かう際に武蔵は
鎌坂峠まで見送ったといわれる




本位田外記之助の墓

武蔵の父無二斎は主君 新免伊賀
守宗貫の命により師弟関係の外記
之助をやむなく討った。上意討ちで
あったため墓石には文字が刻まれ
なかった




鎌坂峠への登り




壱貫清水

因幡街道 鎌坂峠八合目にあり
街道を行き交う旅人の喉をうる
おした。壱貫文の値打ちがある
としてこの名が付けられた



ここからは北に戻り
宮本武蔵駅に向かう



武蔵武道館

メインアリーナと武道場を備える



智頭急行 宮本武蔵駅

宮本武蔵生誕の伝承
地で、その名が付いた


 
駅前の三体像 ・ ホームの武蔵
陶板画。三体像は左から「お通」
・「幼年の武蔵」・「又八」


武蔵像(頭部)


智頭行 ・ 上郡行


智頭急行で【宮本武蔵駅】
→【平福駅】移動



智頭急行 平福駅

平福駅 待合所


因幡街道「平福宿」を南に進む


平福宿 本陣跡

ここ平福は因幡街道最大の宿場
町で、慶長6年(1601年)に池田
輝政の甥の由之が入封して以降
30年間城下町としても賑わった




利神山(373m)

山頂には利神(りかん)城跡が残
され、雲の上に突き出た姿から「
雲突城」とも呼ばれる
(写真右は 城跡石垣の望遠撮影)
時間の都合で今回は登れません



平福陣屋門

代官陣屋の表門、文久
3年(1863年)建設




平福の「川端風景」

佐用川沿いに立ち
並ぶ土蔵と川屋敷








宮本武蔵決闘の場

「武蔵決闘の場」の碑
武蔵13歳のとき、新当流達人 有
馬喜兵衛の「何人なりとも望みし
だい手合わせいたすべし」との高
札を見て、ここ金倉橋のたもとで
初めての決闘を行い勝利した



宮本武蔵決闘の場と金倉の六地蔵


金倉の六地蔵
ここ金倉橋のたもとは、江戸時代に
は平福藩刑場があり、その供養の
ため六地蔵が建てられた



ここからは北に平福駅に戻る


因幡街道 平福宿
の古い町並み




前川家住宅


鋳物師 瓜生原家住宅
文化7年(1810年)建設



土蔵の間から佐用川を見る


佐用川沿いに出てみる





佐用市マンホール「星の都 さよう」



正覚寺



鐘楼門 ・ 本堂



帰路の播磨新宮駅にて

オーストリアのプラッサー&トイラー
社製マルチプルタイタンパー
(保線車)





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