亀山

亀山城跡・亀山宿

【JR 亀山駅】→本久寺→梅巌寺→
亀山城跡→明治天皇亀山行在所→
亀山神社→亀山八幡神社→福泉寺
→法因寺
【JR加太駅】→神福寺→鹿伏兎城跡

2015年01月05日 晴れ 26,515歩



JR草津駅

いったん草津駅の改札を出駅前広場に


「草津宿」の道標



草津駅に戻り草津線に
て【柘植駅】に移動




JR草津駅

草津駅ホーム、柘植行 各駅停車に乗車



近江富士(三上山)を望む

草津線の車窓にて、田圃には昨日降った雪が残っている



JR柘植駅で関西線に乗
り換え【亀山駅】に移動




JR柘植駅(つげえき)

関西本線ホーム
亀山行各駅停車(気動車 キハ120-12)に乗車




JR亀山駅




亀山駅前の鳥居

能褒野(のぼの)神社 一の鳥居
能褒野神社はここから遠く6kmほど北東方向に鎮座しているが?



亀山市マンホール

亀山城とハナショウブ(市の花)が描かれている



本久寺
 
山門
亀山藩主 石川家の菩提寺で「茶室半鐘」が保存されている。「茶室半鐘」は亀岡出身の江戸時代の画家 英一蝶(はなぶさ いっちょう)の下絵により鋳造された半鐘(三重県亀山市御幸町)



本堂



飯沼慾斎生家跡
(いいぬまゆうさい)

江戸時代後期の医者で本草学者で、日本の植物をリンネによる植物の分類法に従って分類した「草木図説」を著した。リンネはスウェーデンの博物学者で、動植物を属名と種名で現す「二名法」を確立した。

 
飯沼慾斎生家跡(左上)の前に建つ道標(右下)
「右 郡役所 左 東海道」




東海道 亀山宿
旧東海道の古い町家



西町 ますや(枡屋)跡



















西町 うまもち そなえや跡




善導寺




本堂





梅巖寺

境内入口(三重県亀山市市ヶ坂町)


参道


山門


本堂


山号扁額「純一山」


梅巖寺 如来三尊


一光三尊※: 善光寺如来三尊
(※:三尊仏が一つの後背を負う形式)




亀山城西之丸と外堀跡

(三重県亀山市西丸町)



亀山藩主石川家家老
加藤家屋敷跡


加藤家土蔵と長屋門(右奥)
江戸時代中期に建てられたもので、現在は長屋門・土蔵・土塀が残されている(三重県亀山市西丸町)



長屋門


土塀








伊勢 亀山城跡

多聞櫓
粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれ、文久二年(1265年)に関実忠により現在地より北西300m程の所にある若山町に築城されたのが始めとされ、その後、関氏により現在の本丸町に移されたと言われる。元亀四年(1573年)にはその時の城主 関盛信が織田信長により城を追われ、天正十八年(1590年)には岡本宗憲が入城した。また、三宅氏が城主の時に丹波亀山城の取り壊しを命じられた堀尾忠晴が間違えてここ伊勢亀山城を取り壊したと言われているが定かではないとのこと。その後、本多俊次により再建されたが明治六年(1873年)の廃城令により取り壊されたため現在は天主台・多聞櫓・石垣堀等を残すのみとなっている。





 
「亀山城跡」碑



明治天皇亀山行在所

「明治天皇亀山行在所遺構 三重県」碑(右)


多聞櫓のすぐ脇にあり、明治13年(1880年)に明治天皇 三重県御巡幸の際の行在所・玉座の建物の一部を移設・保存したものとのこと。天皇の玉座としては質素な建物とも思われるが。



亀山演武場

亀山藩御流儀心形刀流武芸形
心形刀流は天和2年(1682年)に伊庭是水軒秀明により開創、2年後に亀山藩士 山崎雪柳軒により武道場が開設された。その後 亀山藩の御流儀となった【現地説明板参考】



演武場入口



大久保神官家棟門

忍山神社・能牟良神社神官 大久保但馬守の邸宅の門。一時期 亀山西小学校の裏門として使用されていたが現在は亀山神社に移設された



亀山神社

境内入口鳥居(三重県亀山市西丸町)


拝殿


本殿



セスナ機TA3015

亀山城跡に隣接する「亀山公園」には、終戦後に飛行を禁止されていた日本の空を日本人が操縦して始めて飛んだと言われているセスナ機(アメリカから購入した5機の内の1機とのこと)








後ろに蒸気機関車が見える



蒸気機関車 C58 359号

昭和19年(1944年)に川崎車輌神戸工場で製造され昭和45年(1970年)に廃車となった機関車で、愛称を「シゴハチ」と呼ばれ親しまれていた











亀山八幡神社

(三重県亀山市江ケ室)














福泉寺

山門
創建等は不詳との事であるが15世紀後半に天台宗から真宗高田派に改宗したと言われている。本堂はまだ新しく建てられたモダンな造りとなっているが、山門の屋根は「正面軒唐破風付入母屋造り」で大棟の両端には鯱が乗った複雑な構造となっている、江戸後期の寛政七年(1795年)に建てられたものとのこと(三重県亀山市東町)


 
正面軒 唐ハフウ破風付入母屋造りの山門
一層目に比べ二層目が大きく更に屋根部分が大きく重心が高く安定感に欠けるように思われるが、建築後200年余りとなるが良く地震に耐えてきたものである



モダンな造りの本堂


鐘楼



法因寺

山門
境内には樹齢300年と言われるめずらしい左巻きのカヤの木がある


本堂


鐘楼


境内のカヤの木
カヤの変種で種子が大きく表面の螺旋状の筋が左巻きになっている




東海道 亀山宿
古い町並を行く




和洋菓子 風琴堂







東新町 やまがたや跡







東新町 まつばや跡







東新町 だいくや跡







鍋町 ますや跡







平屋建ての古い民家




米川時計店







森永牛乳







商店通り

なぜか白いタイル貼りの建物が並ぶ



旧東海道のマンホール




大きな土蔵のある家







JR関西本線で【亀山駅】
から【加太駅】に移動




JR亀山駅

加茂行 各駅停車(気動車)


加太駅西側のトンネル



JR関西本線 加太駅(かぶとえき)

JR関西本線の非電化区間で唯一の終日完全無人化駅で自動券売機も設置していない。一日の平均乗車人数は約70人程とのこと。駅舎は明治23年(1890年)に関西本線が開業した6年後(明治29年)に建てられたもので、120年もの時が経過しているが今も綺麗に残されている


駅舎内


駅舎説明板



神福寺

加太駅のすぐ西側に位置し、関氏の一族である鹿伏兎氏(かぶとし)の菩提寺で、境内には鹿伏兎氏代々の墓がある。境内の背後の山には鹿伏兎氏の居城跡が残されている。(三重県亀山市加太市場)


山門と鐘楼


本堂


本堂玄関


鐘楼


地蔵堂



神福寺裏山の鹿伏兎城跡に登る




鹿伏兎城跡への登山道
神福寺の境内裏側に登り口があるが、訪ねる人も余り無いためか道は荒れて、踏み跡も殆ど消えているようである、取り合えず尾根筋を登って行く



倒木が行く手を阻む



鹿伏兎城跡(かぶとじょう)

石垣跡
少し迷いながらも30分ほど登ると城跡らしきところに出る。鹿伏兎城は関氏の一族である鹿伏兎氏の居城で、南北朝時代の正平年間(1346年〜1369年)の築城と言われる。当初は「牛谷城」と称されていたが、後に「鹿伏兎城」と改められたとのこと。現在は石垣・土塁・井戸を残すのみとなっている



石垣跡


土塁跡


土塁跡


井戸跡



加太駅北側の拱渠(こうきょ)

拱渠東側
上をJR関西本線の気動車が通過



拱渠東側


レンガによる装飾


拱渠西側



加太駅に戻りJR関西本線【加
茂駅】行に乗車し 帰路に就く




加太駅(かぶとえき)




JR関西本線の単線軌道



柘植駅とランプ小屋

関西本線 加茂行(左)と亀山行(右)気動車


草津線 草津行電車



保線作業車両(柘植駅)

オーストラリア・プラッサー&トイラー社製
08-475マルチプルタイタンパー(通称マルタイ)
砂利の突き固め、レールの高さ調整、レールの曲がりの修正等を同時に行うことが出来るもので1時間に300m〜500mの保線能力があるとのこと




ランプ小屋(柘植駅)

明治23年(1890年)の開業当時に建てられたランプ小屋で、内部には機関車の前照灯や車内照明に使うランプや灯油を保管していた。このほかにもJR関西本線の加茂駅やJR奈良線の稲荷駅にもランプ小屋が残されている。




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