再度山・高雄山

終焉を迎える山の紅葉

【阪急 三宮駅】→布引→市が原→
高雄山→修法ヶ原池→再度山→
太龍寺→二本松→市章山→錨山
→海外移住と文化の交流センター
【阪急 三宮駅】

2014年12月03日 晴れ 27,550歩



三宮駅から布引・市ケ原を経て高雄山へ



砂子橋と歌碑
(いさごばし)


明治33年(1900年)頃に築造された石造水路橋で橋の中には2本の水道管が通っている(重文)、下には生田川が流れ橋詰には藤原基家の歌碑が建つ


九條内大臣基実(藤原基家)歌碑
:建仁3年(1203年)〜弘安3年(1280年)

あしのやの 砂子の山の   
みなかみを のぼりて見れば
        布びきのたき




布引滝(雌滝)

落差19m


落差20m


落水と紅葉




旧布引水源地水道施設の入口建物か?





渓流(生田川)



五本松かくれ滝

落差20m



布引五本松ダム

五本松ダムと紅葉


五本松ダム
布引渓流(生田川)に明治33年(1900年)に築造された水源貯水ダム、日本最古の重力式コンクリートダムで神戸市の水源となっている




布引貯水池

五本松ダムのダム湖
山並全体としての紅葉は見頃である



「布引水源地水道施設 国指定重要文化財」・「近代化産業遺産」プレート




ダム湖々畔の道にて(1)


ダム湖々畔の道にて(2)


ダム湖々畔の道にて(2)


市ケ原への道にて(1)


市ケ原への道にて(2)



紅葉の茶屋




紅葉の茶屋にて、全身真っ黒な猫



市ケ原








高雄山への登り



高雄山々頂

高雄山々頂手前にて


高雄山々頂四等三角点(標高476m)



修法ヶ原池・再度山を経て大龍寺へ



旧蹟 「蛇ヶ谷」

旧蹟 蛇ヶ谷
和気清磨公遭難の地といわれている、神護慶雲年間(767〜770年)和気清磨公が再度山に登る途中に道鏡の刺客に襲われたが大龍が現れ救われた。かくて清磨公は山頂に大龍寺を創建したとされる【現地説明板参考】




修法ヶ原池
(しおがはらいけ)








修法ヶ原池にて、全身真っ白な猫



再度山々頂

弘法大師が唐に渡る前に船旅の無事と学問成就を願いこの山(その時は摩尼山と呼ばれていた)に登り、唐から無事に帰国した際にもお礼の為に再び(再度)登り修行したことから“再度山”の名が付けられた。修法ヶ原池の名前も弘法大師が修行したことから名付けられたという


神戸市 基準点(標高470m)



大龍寺へ下山




大龍寺 四国八十八ヶ所霊場巡り 第五十八番札所


第五十八番札所 仙遊寺 本尊 千手観音


大龍寺 奥の院大師堂


四国八十八ヶ所霊場巡り



大龍寺

本堂(大師堂)と修行大師像


不動堂


毘沙門堂(左)と本堂(右奥)


子育観音


境内一面に積もるイチョウの落葉


四国八十八ヶ所霊場巡り
仁王門へ下る石段



仁王門


仁王像


水子地蔵石仏群



大龍寺を後に市章山・錨山へ










善助茶屋跡







木の根道











「浅間ヶ丘錨山記念保道」碑









市章山

神戸の市章形の刈り込みと電飾用の電球列、隣の錨山と共に神戸のランドマークとなっている


市章山展望台



錨山(碇山)

錨山(碇山)の風力発電用風車


錨形の刈り込みと電飾用の電球列、隣の市章山と共に神戸のランドマークとなっている





錨山を下り三宮駅へ










連理のクス

2本の別のクスノキの枝が地上でつながっている珍しいものでこの状態を連理という、古来より男女の深い愛を表すものとして好まれている【現地説明板参考】


別の木の枝がそれぞれこすれあい、くっ付きあって1本につながっている




トンネル跡
入口は柵で閉じられている




神戸市立
海外移住と文化
の交流センター


大正10年(1928年)に「国立移民収容所」として開設し昭和46年(1971年)に閉鎖されるまで、海外移住の基地として主に南米ブラジルに移住者を送り出していた。現在は海外移住の歴史的資料の展示や在住外国人の支援などが行われている。建物は開設時の大正10年(1928年)の建築、太平洋戦争中は一時期「短期高等海員養成所」の校舎となった。阪神淡路大震災時も倒壊することはなかった


「ブラジル移民 発祥之地」碑


玄関








窓にはブラジル国旗が


石川達三の体験小説「蒼氓(そうぼう)」の舞台となった

神戸港は雨である    
細々とけぶる春雨である

           石川達三



展示室








階段


廊下



東天閣(旧ビショップ邸)

明治27年(1894年)にドイツ人ビショップ邸として建設、昭和20年(1945年)より中華料理店を営業









inserted by FC2 system