太子町

聖徳太子ゆかりの地

【近鉄上ノ太子駅】→竹ノ内街道→孝
徳天皇陵→科長神社→小野妹子墓→
二子塚古墳→推古天皇陵→用明天皇
陵→叡福寺→西方院→敏達天皇陵→
源家三代の墓→大僧正隆光の墓→壺
井八幡宮→飛鳥戸神社→観音塚古墳
【近鉄上ノ太子駅】

2014年11月08日 曇り 32,239歩



上ノ太子駅




妙見寺

山門
推古天皇6年(598年)に蘇我馬子の開基により創建



本堂


法華経塚
小石に一文字ずつ写経し埋納した経塚




竹ノ内街道を行く







太子町マンホール
「和を以って貴しと為す」と聖徳太子“十七条憲法 第一条”の部分および叡福寺 多宝塔と二上山がデザインされている






土蔵のある古い町並




















しもの地蔵尊

江戸時代中期にここ竹ノ内街道脇に安置され旅人たちの安全を見守ってきた、地元では「しもの地蔵」と呼ばれ親しまれている


しもの地蔵




街道は竹ノ内峠に向かって緩やかな上り坂となる














正泉寺

山門


本堂



大道旧山本家住宅

茅葺大和棟民家
左奥の茅葺屋根の家(登録文化財)




孝徳天皇陵

敷石の参道
第36代 孝徳天皇、在位:飛鳥時代 推古天皇元年(645年)〜白雉5年(654年)



「孝徳天皇大阪磯長陵」遥拝所




大きな土蔵のある家



科長神社
(しながじんじゃ)


鳥居
かつては二上山の山上に鎮座し「二上権現」といわれていたが暦仁元年(1238年)に現在の地に移された。科長神社は神功皇后が誕生した地とも伝えられており、また神功皇后が三韓征伐で作らせた兜が伝えられているとのこと



拝殿


拝殿の彫刻


本殿


神庫



小野妹子の墓
 
「道祖 小野妹子墓」標石、まっすぐに続く石段を登る


まだまだ続く石段


小野妹子の墓
近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族出身、聖徳太子の命により推古天皇15年(607年)に最初の遣隋使として中国の隋に渡り文化や技術を持ち帰った。なお翌年にも再び隋に渡っている。子孫に小野篁・小野小町・小野道風などがいる



祭壇



ニ子塚古墳

7世紀後半の方墳を2つ繋ぎ合わせた双方噴、東西の墳丘は同じ形状・大きさの石室・石棺を持っている。推古天皇と竹田皇子の合葬との説もある


上の写真の右側から墳丘を撮影

 
「史蹟 ニ子塚古墳」標石(左)
石室・石棺(右)



石室部


左側の墳丘から右側の墳丘を撮影


右側の墳丘から左側の墳丘を撮影



推古天皇陵

推古天皇磯長山田陵と敏達天皇皇子 竹田皇子墓の合葬陵墓


遥拝所
第33代 推古天皇、在位:飛鳥時代 崇峻天皇5年(592年)〜推古天皇36年(628年)、歴代天皇で最初の女帝


 
遥拝所(左) ・ 「推古天皇磯長山田陵」標石(右)



用明天皇陵

遥拝所
第31代 用明天皇、在位:敏達天皇14年(585年)〜用明天皇2年(587年)

 
遥拝所(左) ・ 「用明天皇河内磯長原陵」標石(右)




三菱電機ストア
MITSUBISHI”の古いロゴマーク(商標)が残されている





隔夜堂
(かぐやどう)


叡福寺境内前にあり叡福寺の堂宇の一つ


隔夜堂 阿弥陀如来石仏(平安末期〜鎌倉初期)



叡福寺

境内前

 
南大門 ・ 「聖徳太子磯長御廟」標石

 
南大門の仁王像


宝塔(左奥)と金堂(右)


宝塔(重文)


金堂


聖霊殿(重文)
聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている



聖徳太子磯長御廟正面


聖徳太子磯長御廟 二天門


二天門から見る南大門

 
二天門の増長天と持国天


増長天と持国天



聖徳太子御廟

聖徳太子御廟(宮内庁管轄)
直径54.3m、高さ7.2mの円墳、聖徳太子、母后 穴穂部間人皇女、妃 膳部大郎女の三体が合葬されており「三骨一廟」といわれる



御廟正面の彫刻




上の御堂
聖徳太子摂政像が祀られている



浄土堂聖


見真大師堂
親鸞聖人が祀られている



経堂


融通念仏宗 宗祖 良忍聖応大師 磯長御廟


親鸞聖人像


弘法大師堂


念仏堂



叡福寺遠望

西方院への参道石段から見る叡福寺
左から宝塔・金堂・南大門




西方院

参道石段を登り赤門をくぐった右側に西方院の山門がある


山門(左)と鐘楼(右)
聖徳太子の3人の乳母 三尼公(善信・禅蔵・恵善
)が太子の死後に出家、太子の御廟所前に一宇を建立し冥福を祈ったのが始まりとされる。このことから日本最古の尼寺ともいわれる
:三尼公
善信:蘇我馬子の娘 月益姫
禅蔵:小野妹子の娘 日益姫
恵善:物部守屋の娘 玉照姫



本堂


本堂 扁額


鐘楼


観音堂


石仏三尊



三尼公御廟所

御廟所内には三基の多層塔がある




 
「三尼公 恵善 善信 禅蔵 御廟所」標石(右)



ミカン畑と二上山




敏達天皇陵

参道入口の「敏達天皇河内磯長中尾陵道」標石


遥拝所
第30代 敏達天皇、在位:敏達天皇元年(572年)〜敏達天皇2年(585年)


 
遥拝所と「敏達天皇磯長中尾陵」標石



泥掛地蔵

お堂の南側にある蓮池の泥を地蔵尊に塗り祈願すると願いが叶うとされ泥掛地蔵と呼ばれていた。しかし現在 泥掛の風習は行われていないとのこと





泥掛地蔵



源頼信の陵

源頼信は清和源氏の家系である満仲の三男で、兄は大江山で鬼退治をした源頼光がおり、また頼信の子孫には源頼朝や足利尊氏などがいる。頼信は長元元年(1028年)の「平忠常の乱」では反乱を鎮圧した




 
「史蹟 源家三代墓 源頼信墓」標石(右)



源義家の墓

源頼義の嫡男で石清水八幡宮で元服したので「八幡太郎義家」と呼ばれた


祭壇と「史蹟 源家三代墓 源義家墓」標石





源義家の墓付近の石造物










大僧正隆光の墓

将軍 徳川綱吉の学僧で「生類憐みの令」を公布させた人物


墓石には「大僧正隆光」と刻まれている



太子町から羽曳野市に入る



通法寺跡

通法寺山門
扁額には「源氏 ・祖郷」と書かれており、清和源氏の流れを引く河内源氏の菩提寺であった。しかし現在は廃寺となっている



境内跡


手水鉢


鐘楼


鐘楼屋根裏



源頼義の墓

源家三代の墓のうち頼義の墓はここ通法寺境内にある


墓石には「源頼義朝臣(あそん)」と刻まれている



壷井八幡宮 一の鳥居

鳥居の向こうには冷泉「壷井」がある



壷井

「前9年の役(ぜんくねんのえき)」で源頼義軍が飲み水に苦しんだとき弓の先で崖を突くと冷泉が湧きだした。平定後に凱旋した際その水を壷に入れ持ち帰り井戸を掘り壷の水を注ぎ込んだ、これによりこの井戸を“壷井”と称し、またこの地の地名の元ともなった【現地説明板参考】


扁額には「壷井水」と書かれている



壷井八幡宮

参道石段
この地は1020年に源頼信が河内守に赴任し河内源氏の本拠とした。その後源頼義が石清水八幡宮の神を勧請し創建したのが始まりとされる



二の鳥居


壷井八幡宮


壷井権現社 拝所



壷井権現社 本殿


「正一位壷井権現」扁額


境内の楠の古木 樹齢約千年とのこと


楠の幹


源義家朝臣 歌碑

吹く風を なこその関と
 思へども 道もせにちる
         山桜かな





壷井八幡宮の鎮座する丘、樹齢約千年の楠の古木が森から抜け出ている



飛鳥戸神社
(あすかべじんじゃ)


境内入口


古来渡来系氏族である飛鳥戸造氏が始祖を祀ったと伝えられる



観音塚古墳

鉢伏山の尾根部分(標高98m)に築かれた約13mの円墳で7世紀中期の築造とのこと。羨道・前室・石槨で構成されている


横口式石槨入口


前室から石槨方向を見る


石槨内部
身と蓋の2つの大きな切石※が隙間なく緻密に積み上げられている
※:この辺りで産出する石英安山岩(奥行:1.93m・幅:0.92m:高さ:0.78m)





観音塚古墳を振り返る



上ノ太子駅

スタート地点の上ノ太子駅に戻ってきました、時間は間もなく午後5時となっていた




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