大坂城
大塩平八郎の乱
【阪急 梅田駅】→大融寺→成正寺
→与力役宅門→泉心洞跡→大塩
の乱槐跡→旧桜宮公会堂→泉布
観→大坂城→大阪市立博物館→
【阪急 梅田駅】
2014年10月11日 曇り 28,344歩
太融寺
東門と「源融公」標石
境内(左から本堂・一願堂・客殿)
弘仁12年(821年)に弘法大師によって創建、嵯峨源氏の祖である源融(みなもとのとおる)※の葬儀が行われた所縁の寺である、明治13年(1880年)には太融寺で国会期成同盟が結ばれ自由民権運動はここから全国に広がったといわれる
※:光源氏のモデルといわれる
本堂
線香立てには毛利家の「一文字三星紋」が入っている、しかし源融の子孫である渡辺綱の渡辺家の家紋「渡辺星(三星が上で、一文字が下)」と間違えたのか?といわれている
十三重石塔
一願堂(右)と御供所(左下)
九山八海の庭
芭蕉の句碑
しら菊の 目に立て見る 塵もなし 芭蕉
淀殿の墓(六重石塔)
東成郡鴫野村弁天島(淀姫神社)にあったが明治10年(1877年)に太融寺境内に移された
成正寺(じょうしょうじ)
大塩平八郎墓所
山門と「中斎大塩平八郎墓所」標石
慶長9年(1604年)増長院日秀聖人の開基により創建 〔大阪市北区末広町〕
本堂
“大塩の乱※殉死者”の碑(左)と大塩平八郎の墓(右奥)
※:天保の大飢饉の米不足で餓死者もあいつぎ多数の百姓一揆・打ちこわしが起こった。にもかかわらず大坂から江戸に米を送ろうとした幕府の大坂町奉行所に業を煮やした大塩平八郎は東町奉行所の与力であったにも拘わらず、天保8年(1837年)に挙兵し役人や大商人などの屋敷に火をかけた、これにより大坂の町の五分の一が焼失したといわれる
大塩平八郎の墓(左)と養子の格之助の墓(右)
「大塩の乱に殉した人びとの碑」
蓮興寺
山門(左)と「蓮興寺・大塩家墓所」標石 〔大阪市北区末広町〕
大塩平八郎の両親の死後に育ててくれた祖父母の菩提寺とのこと
川崎東照宮跡
(滝川小学校)
滝川小学校正門と「川崎東照宮跡」碑
川崎東照宮跡のあった処で大塩の乱では決起集会の場所であったが内通により変更された、大塩の乱で焼失し再建は叶わなかった
正門庇のステンドグラス
造幣局レンガ塀
与力役宅門
かつてこの辺りには東町奉行所天満与力の与力役宅が軒を並べていた、この長屋門は現存する唯一のものとのこと 〔大阪市北区天満1丁目 造幣局官舎内〕
長屋門正面
造幣局旧正門 ガス灯
洗心洞跡
大塩平八郎の私塾「洗心洞」跡 〔大阪市北区天満1丁目 造幣局官舎内〕
大塩の乱槐跡
造幣局西側 国道1号線に建つ「大塩の乱槐(えんじゅ)跡」碑(左)と日時計(右奥)
大塩の乱で大砲によって裂けた樹齢200年の槐(えんじゅ)の木があった、石碑の脇には新たに槐の木が植えられている
「大塩の乱槐跡」碑と日時計
日時計の月別時差表(±調整表)拡大
造幣局
旧桜宮公会堂
昭和10年(1935年)に旧造幣寮(現 造幣局)の正面玄関を移して明治天皇記念館として建てられた建物で重要文化財に指定されている。現在はフレンチレストラン・結婚式場として使用されている 〔大阪市北区天満橋〕
泉布観
明治4年(1871年)現在の造幣局の応接所として建てられた、“泉布観”の名前は貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から明治天皇によって名付けられた。設計はトーマス・ウォートルス、大阪に残る最古の洋風建築となっており重要文化財に指定されている 〔大阪市北区天満橋〕
泉布観のレンガ小屋
桜宮橋にて
大川に架かる桜宮橋より、水上バス(アクアライナー)“なにわ2号”
水陸両用バス
大川を行く 水陸両用バス“ダックツアー”
豊臣時代の石垣
豊臣時代の大坂城三の丸石垣をここに復元したもの、三の丸石垣は慶長3年(1598年)に防衛強化のため築かれたが慶長19年(1614年)に大坂冬の陣で講和条件として徳川方によって取り壊された【現地説明板参考】
大坂城
京橋口桝形の入口
肥後石(城内第ニ位の巨石)
京橋口の桝形虎口の巨石で加藤清正が運んできたので「肥後石」と呼ばれているが定かではない、産地は小豆島
天守閣
秀頼・淀殿 自刃の地
慶長20年(1615年)大坂夏の陣で追い詰められた秀頼・淀殿が山里丸の櫓に潜みその後自害した
「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑
山里丸石垣の機銃掃射痕
第二次大戦の空襲による機銃掃射痕
機銃掃射痕
第二次大戦の空襲での1トン爆弾による石垣のずれ
残念石
元和6年(1620年)からの大坂城修復時に小豆島で割り出されたまま島に数多くの石垣用の石が残されており「残念石」と呼ばれていた。昭和56年(1986年)にその「残念石」の一つが小豆島より運ばれここに添え付けられた
石垣の刻印表
左:前田家 家臣の相印
右:加賀金沢 前田筑前守利常・肥前嵯峨 鍋島信濃守肥茂
左:丹後竹田 中川内膳正久盛 又は 伊予大洲 加藤出羽守恭興
右:加賀金沢 前田筑前守利常
左:豊後佐伯 毛利伊勢守高政
右:若狭小浜 京極若狭守忠高
左:出雲松江 堀尾山城守忠晴
右:肥後熊本 加藤肥後守忠広
真田陣太鼓
“大坂の陣 400年天下一祭”
信州上田 真田陣太鼓
大阪市立博物館
(旧陸軍第四師団司令部庁舎)
旧陸軍第四師団司令部庁舎として昭和6年(1931年)に竣工、戦後 大阪府警察本部として10年間使用され、昭和35年(1960年)には大阪市立博物館として開設された。その後平成13年(2001年)に閉館、平成29年(2017年)からは複合施設「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」として営業
建物側面と出入口
建物裏面
「信州上田 真田陣太鼓」のトラックが止まっている
建物正面の「大阪市立博物館」の看板
建物正面塔屋
建物側面出入口
建物正面の窓
建物裏面のステンドグラスの丸窓
玄関ロビーから外を見る
玄関ロビー
玄関ロビー照明
玄関ロビー奥の照明
一階通路
「大阪市立博物館」のプレート
大阪市立博物館屋上から見る天守閣
蛸石(城内第一位の巨石)
桜門桝形虎口内の巨石で、縦5.5m、横11.7m、厚さ75cmある。大きさの割に厚みはない。石の左下の模様から“蛸石”と呼ばれるようになったといわれる。産地は備前
犬島
天守閣石垣の刻印 写真の中央部
前田家家臣の刻印
堀の石垣の抜け穴?
抜け穴?
堀の石垣の刻印
大阪舎密局址
(せいみきょく)
「舎密局址」碑
明治2年(1869年)にオランダ人教師クーンラート・ハラタマを教頭に招き理化学校「大阪舎密局」が開校された 〔大阪市中央区大手前〕
ハラタマ博士胸像
オランダ人化学者・医学者で慶応2年(1866年)に来日し、幕末から明治にかけて長崎・江戸・大阪で日本の理化学教育に貢献した
水陸両用バス
水陸両用バス“ダックツアー”に再会、今は道路を走る