守口宿

鯨橋の寺

【阪急 上新庄駅】
→瑞光寺→大宮神社→守口宿→難宗寺→盛泉寺→平田の渡し→江口堂→大隅神社→逆巻地蔵→【阪急 上新庄駅】

2014年09月17日 晴れ 25,790歩



阪急 上新庄駅




駅前では天然温泉掘削中とのこと、街中のこんな所に温泉が湧くのか



鯨橋 瑞光寺
 
参道入口
聖徳太子創建の古刹、宝暦6年(1756年)に寺の住職が南紀太地浦で鯨の不漁に悩む漁師に懇願され、殺生は好まないがやむなく豊漁祈願をした。その結果、豊漁となったお礼として漁師より鯨の骨をもらい、供養のため橋を造ったのが鯨橋の始めとされる。
現在は欄干や親柱に鯨の骨を使っているが、かつては橋板も鯨の骨が使用されていたとのこと。参道奥には鯨橋が見える


 
石橋と寺号「鯨橋 瑞光寺」の標石


山門?、大きな鯨の骨が建つ参道。


「今上天皇御駐車所」碑



雪鯨橋(鯨橋)

弘済池に架かる雪鯨橋(せつげいきょう)
「鯨橋」とも呼ばれ、現在の橋は6代目で調査捕鯨で捕獲されたイワシ鯨の骨で出来ている。今後は鯨の保護運動が盛んになるため鯨の骨の入手が困難になるとのこと。



イチョウの葉の形をした骨は鯨の肩甲骨。後ろに見えるのは大隅神社御旅所


鯨の脊椎





本堂
聖徳太子創建の古刹、宝暦6年(1756年)に寺の住職が南紀太地浦で鯨の不漁に悩む漁師に懇願され、殺生は好まないがやむなく豊漁祈願をした。その結果、豊漁となったお礼として漁師より鯨の骨をもらい、供養のため橋を造ったのが始めとされる。
現在は欄干や親柱に鯨の骨を使っているが、かつては橋板も鯨の骨が使用されていたとのこと。 〔大阪市東淀川区瑞光〕




大隅神社御旅所

瑞光寺の境内にあるが、参道は別になっているようである。



大宮神社

創建時期等は定かではないが、第27代 安閑天皇が放牧でこの地の開発を進めたとされ、その遺徳を偲んで安閑天皇を祀ったのが始めとされる。
また聖徳太子がこの地に四天王寺の創建を試みたが、淀川の洪水が多発するため、現在の四天王寺の地に変更したとされる。 〔大阪市東淀川区大道南〕



拝殿


本殿


聖徳太子社


絵馬



豊里大橋
 
橋長560m余りの豊里大橋を渡り、対岸の旭区を抜け守口市に向かう。土手には秋を知らせる萩の花が咲き乱れる。









文禄堤への上り坂
坂の上で左に曲がると文禄堤となり、守口宿の南西の端に当たる。かつて守口宿は京都・大坂間の通行の要衝となっていた。上ってすぐ左には義天寺 題目石がある




義天寺 題目石







文禄堤と守口宿

文禄堤の守居橋
文禄5年(1596年)に豊臣秀吉が毛利・小早川・吉川の三家に命じ淀川左岸の堤を改修させたもので、堤の上を京都 伏見城と大坂城を結ぶ街道とした。
京都へ向かう時は「京街道」、大坂へ向かう時は「大坂街道」と呼ばれたという。通常東海道は日本橋から三条大橋までの五十三次とされるが、大坂までの五十七次ともいわれ ここ守口宿は57番目の宿場町として整備された。
文禄堤のうち現存するのは、ここ守口宿があった700m程の間のみで かつての宿場町の面影を残している。


守居橋の切り通し
切り通しになっており文禄堤の断面を見ることができる。茶色と灰色の台形部分が文禄堤の断面で橋の上を街道(京街道・大坂街道)が通る。左の階段の上には石灯籠が建つ。



橋詰の石灯籠


文禄堤の守口宿跡


文禄堤の本町橋


本町橋の切り通し
左奥には京阪 守口市駅



京阪 守口市駅


虫籠窓の町屋が続く守口宿跡(1)


虫籠窓


虫籠窓の町屋が続く守口宿跡(2)


虫籠窓


虫この石段を下ると奈良・野崎へ


石段上の「右 なら・のざき道」の道標



難宗寺(なんしゅうじ)
 
山門と「明治天皇 守口行在所」標石
枚方に光善寺を創建した蓮如上人が文明9年(1477年)に守口坊として建てたのが始めとされる、後に本願寺の掛所(かけしょ)となり「守口西御坊」と呼ばれた。〔大阪府守口市竜田通〕


本堂


鐘楼


境内山門脇の大イチョウ
高さ25m、樹齢400年と伝えられている



「明治大帝聖跡跡」碑慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの後に「大坂遷都」案に沿って行われた明治天皇の行幸の途中1日だけ宿泊されているとのことで「1日御所」といわれる。


太鼓楼 4基の標石が建つ


標石群
左から @左 京・・・ Aすぐ守口街道 B御仮泊所 C御行在所




守口宿 本陣跡

守口は元和2年(1616年)に東海道の宿場となった、ここ本陣では大名・勅使・幕府役人が宿泊した。しかし明治5年(1872年)には廃止され現在は駐輪場になっている。


現地説明板



盛泉寺(じょうせんじ)

山門 〔大阪府守口市浜町〕

 
「明治天皇聖跡」 ・ 「内侍所奉安所址」標石


本堂
慶長11年(1606年教如上人による創建、難宗寺の「西御坊」に対し「東御坊」と呼ばれている。現在の本堂は焼失後の天保6年(1835年)に再建したものである。明治天皇の大坂行幸の際には神器を奉安したので「内侍所」となったとのこと。



本堂の軒
本堂の周り前半部には一間(1.8m)の軒が張り出しているが縁柱を立てていない珍しい構造になっているとのこと。現在は補強のため2本の柱が立てられているようである



鐘楼


「内侍所之跡」碑


境内に咲く彼岸花



書院




書院内座敷
本堂と渡り廊下でつながった座敷で、ここが神器が安置されたところか?



書院天井











大塩平八郎の手紙

東町奉行所与力 大塩平八郎が天保8年(1837年)に起こした「大塩平八郎の乱」の6年前に大坂西町奉行所与力 山内彦次郎宛に書いたものとのこと。
※:4年前に起こった飢饉の際には 山内彦次郎のの尽力により切り抜けたが、大塩平八郎とは対立していたとされ、大塩平八郎の逮捕ににも大きく貢献したとされる。



守口宿一里塚

徳川ニ代将軍 秀忠によって五街道が整備され旅の目安として一里塚が置かれた。一里塚には目印として松や榎が植えられた。ここ守口宿にも何代目かの松が植えられている。〔大阪府守口市浜町〕


一里塚跡の説明標石



成田不動尊
交通安全像


成田不動尊はこの先10kmと書かれている



白井家
(大塩平八郎ゆかりの書院跡)

白井家当主の孝右衛門は大塩平八郎の私塾「洗心洞」の門人で経済的にも平八郎を支援していたとされ、この書院で講義をしていた。
※:河内国守口町の質屋の隠居で大塩平八郎の乱に加わり捕らえられ牢死した。


「大塩平八郎ゆかりの書院 門弟白井孝右衛門屋敷跡」の標石


白井孝右衛門屋敷【説明板より】



平田の渡し跡
(へいたのわたし)


帰りは再び豊里大橋を渡り、江口堂に立ち寄り上新庄駅に戻る。


豊里大橋が架けられるまでの宝永4年(1676年)から昭和45年(1970年)までの間は「平田渡し」が旅人の足として使われてきた。「平田渡し」は淀川の渡しで最後まで使用された渡しとなった。


【現地説明板】


豊里大橋から見る川面





大道取水塔

昭和33年(1958年)に設置され、以降ここで取水した水は浄水場に送られ、尼崎市・西宮市・芦屋市・神戸市に水道水として送られる


淀川取水橋、昭和37年(1962年)竣工


大道取水場



淀川距離標 15.2km

淀川の河口からの距離を示しているもので、石柱型・平面型・三角点型などがある


平面型 淀川距離標



江口之君堂 寂光寺

寂光寺境内 〔大阪市東淀川区南江口〕

 
「江口之君堂」・「江口の里」標石
仁安2年(1167年)に西行法師が天王寺に参詣の途中、ここ江口の里で急に雨に降られ、一軒の民家に雨宿りを願ったが、民家の主人である遊女の妙はそれを断った。
そこで西行は皮肉をこめて歌を詠み その訳を問うと、妙はすぐさま歌で見事に返したという。これがきっかけとなり二人は意気投合し一晩中歌を詠み語りあかしたといわれる。
西行とのこの出会いが縁となり妙は髪をおろし仏門に入り「光相比丘尼(こうそうびきに)」と称し、ここ江口の里に草庵を開いた。光相比丘尼の亡き後、里人は供養のため江口の君堂を建立したとされる。



本堂(江口堂)


鐘楼

西行塚と江口の君塚





世の中を 厭(いと)ふまでこそ
(かた)からめ 仮の宿りを
惜しむ君かな
     西行法師

世の中を捨てて出家するのは難しいが君はなぜ一夜の宿を惜しむのですか




世を厭(いと)ふ 人とし聞けば
仮の宿りに 心止むなと
思うばかりぞ
   妙(江口の君)

世の中を捨て出家したあなたが、なぜ一夜の宿(現世)にこだわるのですか



大隅神社

鳥居
ここ大隅島(現在は島ではないが)の地は応神天皇が離宮(大隅宮)を営んだところで、天皇崩御の後に里人によって祠が建てられ祀られた。このため八幡神社ではないが応神天皇を祭神とする珍しい神社となっている。
その後、多くの神社が合祀され拝殿前には五対の狛犬がが並び独特な景観をかもしだしている。〔大阪市東淀川区大桐〕


境内


拝殿
拝殿前には左右に五対の狛犬が並ぶ



本殿


五対の狛犬(左側)


五対の狛犬(右側)
右側の狛犬の左前足には家出や夜遊び防止などの「足止め(禁足)祈願」の紐が結ばれている



「足止め(禁足)祈願」の紐


本堂脇に建つ「乳牛山大道寺跡」の標石
山号の「乳牛山」は、かつて安閑天皇の時代には、ここ大隅島は「乳牛牧の荘」と呼ばれ多くの牛が放牧され毎朝牛乳を搾り皇室に届けられたといわれる。




逆巻地蔵
 
地蔵堂
淀川はこの付近で急流となっていたため、船の転覆事故が多発し、転覆防止のために帆を逆さに巻いて航行していた。それでも多くの犠牲者が出たため、弘化3年(1846年)にこの逆巻地蔵が建てられたといわれる。



逆巻地蔵




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