伊賀上野(その2)

忍者の里に芭蕉の生家を訪ねる

(その1)→上野高等学校→芭蕉生家→愛染院→寺町七ヵ寺→蓑虫庵→【伊賀鉄 伊賀市駅】

2014年09月08日 晴れ 24,192歩



旧 県立第三中学校
(県立上野高等学校旧本館)

校門
明治33年(1900年)に建設されたものであるが創建当時の状態で残されている、白く塗装されたペンキもはがれが目立ちその歴史の古さを物語っている。
明治18年(1895年)に郡立中学校として「崇廣堂」を借りて開校したのが始めとされ、明治32年(1899年)に県立第三中学校となり翌年にこの校舎が完成した
〔三重県伊賀市上野丸之内〕

 
校門々柱 ・ 「三重県立上野高等学校」


校舎


校舎中央部


正面玄関ポーチ


正面玄関扉


正面玄関ポーチにて(1)
正面ポーチの柱は中央部に膨らみをもつエンタシス形式で三本が一組になった珍しいもの



正面玄関ポーチにて(2)


三本が一組のポーチ柱基礎部


校舎床下の通気口?


正面玄関ポーチにて(3)


校舎の左側棟


校舎の右側棟





伊賀上野城 白鳳門




芭蕉翁生家
 
生家入口門(現在は閉じられている)
「史蹟 芭蕉翁誕生の地」標石(右)
〔三重県伊賀市上野赤坂町〕



正保元年(1644年)に松尾与左衛門の次男として生まれた家で、29才までここで過ごしたといわれる。
長い土間を抜けた家の裏には「釣月軒(ちょうげつけん)」があり、芭蕉の処女句集「貝おほい」をしたためた処といわれ、伊賀に帰郷した時はここで生活していたとのこと。
尚、芭蕉の生誕地はもう一カ所あるとされ、同じ伊賀市の柘植(つげ)で生まれ、幼くしてここ赤坂の地に引っ越してきたとの説もある。



生家入口(白い扉を開けて入る)


座敷内より


表の間


表の間 芭蕉像


芭蕉像





流し台


井戸


便所


陶器製便器



釣月軒(ちょうげつけん)

伊賀に帰郷した時はここで生活していた。








竹組天井








無名庵跡(むみょうあん)




「無名庵跡」句碑

冬篭り またよりそはん 此のはしら
                芭蕉




道標
 
「左 東海道せき道 右ならはせ山上道」


厨子二階 虫籠窓の古い町並



偏光山願成寺 愛染院
 
山門と「芭蕉翁故郷塚」脇碑
元禄7年(1694年)に芭蕉は旅の途中、大坂の花屋仁左衛門の離れ座敷で亡くなったが、芭蕉の生前の遺言により大津の「義仲寺」に葬られた。
その知らせを聞いた伊賀の門人である服部土芳(蓑虫庵の主人)が大坂から芭蕉の遺髪を持ち帰り、松尾家の菩提寺であるここ愛染院の脇に埋め石碑を建て「故郷塚」としたといわれている。


境内


本堂
正式寺号は「偏光山願成寺」と称すが、本尊 愛染明王が祀られているため「愛染院」と呼ばれる。



山門とサルスベリ





故郷塚入口 紫門



故郷塚






茅葺の小堂内には芭蕉の遺髪を埋めた印
として自然石で出来た塚が建てられている




芭蕉句碑

芭蕉が亡くなる年の元禄7年(1694年)51歳に故郷の伊賀に帰り、一族で墓参りをした時に詠んだ句。

家はみな 杖にしらがの 墓参り
                芭蕉




芭蕉句碑


数ならぬ 身となおもいそ 玉祭り
                芭蕉




瓢竹庵

瓢竹庵(再建)
芭蕉ゆかりの五庵の一つ




伊賀街道と大和街道の町並

厨子二階 虫籠窓の古い町並を行く


虫籠窓


格子窓に架けられた竹笊と活花





虫籠窓



井本薬局

ここで伊賀街道と大和街道が交差する






■■■■■■ 寺町七ヵ寺を巡る ■■■■■■



上行寺
(藤堂家歴代墓所)


山門
伊勢国津藩 藤堂高虎によって天正16年(1588年)に紀州粉河に創建され、高虎の転封につれて伊予国(今治)を経て慶長16年(1611年)ここ伊賀上野に移された。 境内には藤堂家開祖 高虎から十祖 高兌(たかさわ)までの墓所がある。



本堂



藤堂家歴代墓所(上行寺境内)

御霊屋(おたまや)
藤堂高虎の父藤堂虎高と継室の墓



藤堂家開基 藤堂高虎の墓


藤堂家二祖 藤堂高次の墓


藤堂家三祖 藤堂高久の墓


藤堂高重(藤堂高虎の次男)の墓



旧 上野市のマンホール

忍者・伊賀上野城に市の花「ハギ」、市の鳥「シラサギ」があしらわれている。現在は平成16年(2004年)に上野市・伊賀町・青山町・阿山町などが合併し伊賀市となっている。



妙昌寺

山門


本堂



妙典寺

山門


本堂



善福寺

山門


本堂



万福寺
(河合又五郎の墓)


山門
寛永11年(1634年)に「鍵屋辻の決闘」で討たれた河合又五郎の墓がある。



本堂


本堂扁額



河合又五郎の墓(万福寺境内)

寛永11年(1634年)に渡辺数馬の弟の仇であった河合又五郎は伊賀上野の鍵屋辻(伊賀市小田町)で渡辺数馬と荒木又右衛門に討たれた。
この時、又右衛門はまだ24才の若さであった。 この仇討ちは、蘇我兄弟の仇討ち、赤穂浪士の討入りと合わせ「日本三大仇討ち」といわれている。
荒木又右衛門は大和郡山藩剣術指南役で数馬の叔父にあたるため、数馬が助太刀を依頼したとされ、一方で又五郎の警護を行ったのが同じく叔父で大和郡山藩剣術指南役の河合甚左衛門であった。





念仏寺

山門


本堂


六角堂


鐘楼



大超寺
(藤堂玄
蕃家代々の墓)

山門
境内墓地には藤堂藩家老の藤堂玄蕃家代々の墓がある



本堂


観音堂


鐘楼



藤堂玄蕃家代々の墓

藤堂藩家老の藤堂玄蕃家代々の墓



蓑虫庵
(みのむしあん)


玄関
芭蕉の弟子 服部土芳の草庵、芭蕉五庵
の一つで現存するのはこの蓑虫庵のみである。貞享5年(1688年)の庵開きの時に芭蕉が訪れ詠んだ俳句から「蓑虫庵」と名付けた。庭園には芭蕉堂や芭蕉の句碑、土芳の供養塔がある。
〔三重県伊賀市上野西日南町〕
:無名庵(むみょうあん)、西麗庵(さいろくあん)、東麗庵(とうろくあん)、瓢竹庵(ひょうちくあん)とここ蓑虫庵(みのむしあん)をいう


玄関扁額「蓑虫庵」








蓑虫庵




蓑虫庵側面入口


蓑虫庵入口 扁額


座敷


芭蕉図


芭蕉俳句の扁額
「芭蕉庵」の名前の基になった芭蕉の句

蓑虫の 音を聞きに来よ 草の庵
                芭蕉






手水鉢


敷石の路



芭蕉堂

義仲寺の芭蕉堂「翁堂」を手本にし昭和5年(1930年)に建てられた。内部には義仲寺と同様に芭蕉像が安置され天井も竹を使用した造りとなっている。また脇には服部土芳の位牌が置かれている。


芭蕉堂扁額


堂内の芭蕉像(中央)と
服部土芳の位牌(右端)



竹組の天井




前庭と芭蕉句碑(右)



芭蕉 句碑




句碑下部の蛙と波紋

古池や 蛙飛び込む 水の音
                芭蕉




わらじ塚

長旅を終えた芭蕉のわらじを土芳が貰い受け塚とした、井戸のようにも見えるが。



服部土芳の供養墓所




上野忍町を通り上野市駅に向かう

この辺りは、かつては伊賀忍者が住む屋敷跡とのこと、今も「忍町」の名前が残されている。






伊賀鉄道 上野市駅




松尾芭蕉像




伊賀鉄道 忍者電車










伊賀上野駅でJRの気動車に乗換え




電化区間への切り替え地点

JR加茂駅手前の電化区間への切り替え地点(気動車前方の窓より撮影)
関西本線の加茂駅から西へ難波駅までは電化されており、加茂駅の東側から架線が張られている。切り替え地点では架線は右側から斜めに列車が向かう中央上部に入り真っすぐ加茂駅に向かって張られている。





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