堅田

芭蕉・一休・蓮如と湖族の郷

【JR堅田駅】→智鎮神社→堅田藩陣屋跡→浮御堂→おとせの石→伊豆神社→宝井其角邸跡→本福寺→光徳寺→祥瑞寺→出島灯台→野神神社→【JR堅田駅】

2014年08月27日 晴れ 22,548歩



JR堅田駅




堅田内湖

堅田内湖はここから先に300m程で琵琶湖の堅田漁港となり水路とつながっている。水面に立ち並ぶ支柱は淡水真珠の養殖用棚とのこと。


内湖大橋


内湖の右奥には琵琶湖大橋が見える。



智鎮神社
 
琵琶湖の漁師町小番城(こはぎ)に鎮座し、地元の漁師達の信仰を集めている。
〔大津市本堅田〕



社殿



天然図画亭庭園
(てんねんずえてい)

 
かつて琵琶湖の水運を支配していた豪族「居初(いそめ)家」の、琵琶湖の雄大な景色を借景とした枯山水の庭園。 しかし残念ながら本日は休館日となっているようである。 〔大津市本堅田〕


居初(いそめ)家住宅


居初家の母屋と米蔵(左)



三島由紀夫
「絹と明察」文学碑





灯台と近江富士(三上山)




「志賀廼家淡海生誕の地」碑
(しがのやたんかい)


明治16年(1883年)にここ本堅田村の旅館の子として生まれた、後に喜劇王として一世を風靡した、「淡海節」で知られる。



堅田藩陣屋跡

陣屋跡


陣屋の表門辺り、左側が陣屋跡で対岸には近江富士(三上山)が見える。



海門山 満月寺
浮御堂


満月寺(後ろには琵琶湖が広がる)
琵琶湖の湖面に突き出したお堂で「堅田の浮御堂」として知られている。平安時代に源信(恵心僧都)が比叡山より湖面を望み湖上にお堂を建立し航行の安全と魚貝殺生の供養を行うために千体の阿弥陀如来を祀ったのが始めとされる。〔大津市本堅田〕



禅寺特有の山門(竜宮門)



浮御堂

現在のお堂は昭和12年(1937年)に再建されたものとのこと。








堂内の千体阿弥陀如来、「千仏閣」・「千体仏堂」とも呼ばれる








近江富士 遠望

浮御堂から望む、対岸の近江富士(三上山)




観音堂

芭蕉句碑

元禄4年(1691年)には、芭蕉が訪れ月見を催し俳句を詠んでいる。

鎖あけて 月さし入れよ 浮御堂  芭蕉



絵馬「近江八景 浮御堂」



おとせの石

おとせの浜
ここに建てられた「おとせの石」には次のような悲しい伝説が残されている。
堅田で生まれ、都で源氏の屋敷に奉公していた「おとせ」は、平家に攻められた際に源氏の白旗を護り逃れ、琵琶湖に飛び込んだ。
しかし手は切り落とされ「おとせ」は亡くなるが手は白旗を握ったままここに流れついたといわれる。 以降この浜を「おとせの浜」と呼ばれるようになった。
その後、「おとせ」の息子は「手塚太郎光盛」と名乗り源氏の木曽義仲の家来となり源氏に忠誠を尽くしたといわれる。


おとせの石



伊豆神社

参道
平安中期の創建、比叡山延暦寺の尊意僧正が伊豆の三嶋で伊豆権現の神託を受けた。比叡山に戻った尊意僧正は伊豆三嶋に似たこの地に伊豆神社を創建したとされる。
堅田は、かつては「堅田湖族」と呼ばれ湖上水運要衝として栄え、自治都市を形成していたとされる。堅田衆から信仰を受けていた伊豆神社も境内には環濠が造られ、外敵からの備えを固めていたようである。 〔大津市本堅田〕



鳥居


拝殿


本殿


本殿


「幸福を呼ぶ霊石」
この石を擦ると幸せになる、また恋しい人・逢いたい人にその想いが叶うと云い伝えられる。【現地説明板参考】




境内を囲む環濠跡



宝井其角邸跡
(たからいきかく)


松尾芭蕉の弟子「蕉門十哲」の一人である「宝井其角」の父親「竹下東順」の生家で「其角邸跡」として石碑が建てられている。
赤穂浪士討入りの前夜に粗末な格好をした大高源吾と出会った、其角は別れ際に源吾の粗末な格好を哀れんで上の句を詠んだ、源吾は直ちに下の句を返した。
後に源吾の粗末な格好は吉良邸の密偵のための変装であったことに気付き自らを恥じたといわれる。 世の中は金が全てではないとのことか?

:赤穂浪士の一人で其角の俳諧の弟子。

(上の句)  年の瀬や 水の流れと 人の身は  宝井其角

(下の句)  あした待たるる その宝船  大高源吾



「宝井其角寓居乃跡」碑



本願寺旧址
本福寺


応仁乱の戦火を逃れ移り住んだ蓮如上人が布教再興の拠点とした所で「本願寺旧址」とも呼ばれている。 本福寺の第十一世住職が松尾芭蕉の弟子であったため、芭蕉も度々この寺を訪れ俳句を詠んでいる。 〔大津市本堅田〕

からさきの 松は花より おぼろにて

病雁の 寒に落ちて 旅寝かな

                   芭蕉

 
山門 ・ 「本願寺旧址 本福寺」の標石




 
蓮如上人像 ・ 「蓮如上人」碑


鐘楼


蓮如堂


境内に植えられた枝振りの見事な松の木





光徳寺

山門 〔大津市本堅田〕
光徳寺には信仰心の深い一人の男の話が残されている。


寛政の法難で蓮如上人は親鸞聖人の御影を三井寺に預け逃れた。後に蓮如が返却を請うと生首二つ差し出すよう迫られた。
それを聞いた漁師の源兵衛は自分の首を差し出すよう父親の源右衛門に進言、父は息子の首を刎ね三井寺に差出し自分の首も刎ねるよう申し出た。
父子の信仰の深さに感じ入った三井寺は、父 源右衛門の首を刎ねず親鸞聖人の御影を返したといわれる。【現地説明板参考】
本堂には息子の源兵衛の頭蓋骨が祀られているとのこと。


本堂


鐘楼


息子 源兵衛の首を刎ねる
父 源右衛門の像





源兵衛の墓



祥瑞寺

境内正面 〔大津市本堅田〕
一休さんこと「一休宗純」が、ここ祥瑞寺で13年間に渡り禅の修行をしたことで知られ、“一休”という名もここで名付けられたとのこと。
また松尾芭蕉も一休さん所縁のここ祥瑞寺を訪ね俳句を詠んでいる。


 
山門 ・ 「一休和尚修養地」碑


方丈(本堂)


鐘楼



芭蕉句碑


朝茶飲む 僧静かなり 菊の花  芭蕉



境内の石仏



都久生須麻神社
(つくぶすまじんじゃ)

 
参道入口鳥居と「都久生須麻神社」
先に訪ねた伊豆神社の摂社で、竹生島に鎮座する都久生須麻神社との関係は不明であるが、竹生島と同様に弁財天が祀られている。 〔大津市本堅田〕



境内入口鳥居


社殿




中井呉服店

〔大津市本堅田〕





堅田漁港




「吾唯足知」の石碑

民家の軒下に石臼に囲まれ、建てられた「吾唯足知(われただたるをしる)」の石碑



古い町並が続く




出島の灯台
(でけじまのとうだい)


琵琶湖が一番狭くなった今堅田の岬沖では船の事故が多発した。 航行の安全を祈り、岬の先端に明治8年(1875年)に建てられた高さ7.8mの木造灯台。
大正7年(1918年)まではランプで火が灯されていたが、その後は電気に変えられた。 現存のものは、台風により損傷したため昭和48年(1973年)に復元されたものとのこと。



出島の灯台










古い町並が続く




目前に迫る琵琶湖大橋




野神神社
 
鳥居と「勾当内侍御廟道」標石
勾当内侍(こうとうないし)は藤原行房の妹で、新田義貞の妻となった。義貞が越前で討死したことを知った内侍は悲しみのあまり ここからすぐ東の琴ヶ浜に身を投げたとされる。
堅田の村人たちは供養のためここに墓を築き、その後に社を建て「野神神社」と呼ばれるようになった。 〔大津市本堅田〕



拝所


本殿(後ろに勾当内侍の墓がある)


勾当内侍の墓




墓石は自然石を積み上げた素朴なものである



大津市のマンホール

琵琶湖の名所・名物の図柄が盛りだくさんに描かれている



「湖族の郷」 像

戻ってきた堅田駅前には「湖族の郷」像が建つ。 湖上水運の要衝として栄え、下鴨神社の御厨が置かれたことで漁業権・船の通行権で莫大な利益を得たとされ、かつては「堅田湖族」・「堅田衆」と呼ばれ強固な自治都市を形成していた。


「湖族の郷」像




inserted by FC2 system