垂水(その2)

垂水の古墳・洋館を巡る

(その1)→海神社→寶ノ海神社→垂水漁港→遊女塚→五色塚古墳→旧 武藤山治邸→孫文記念館→明石海峡大橋→舞子砲台跡→【JR舞子駅】

2013年10月17日 晴れ 29,637歩



海神社
(わたつみじんじゃ/かいじんじゃ)


参道入口鳥居
綿津見神社(わたつみじんじゃ)とも呼ばれ、祭神として海の神である上津綿津見神/中津綿津見神/底津綿津見神の三柱が祀られている。 神功皇后が三韓征伐の帰路、この沖で嵐に遭った時に綿津見神を祀ったところ嵐が治まったとされ、そこに社殿を建て三神を祀ったのが始めとされる。 〔神戸市垂水区宮本町〕



鳥居扁額


境内正面

 
境内入口鳥居


拝殿



寶ノ海神社
(たからのうみじんじゃ)

 
境内入口鳥居
海神社の赤鳥居の傍に鎮座するこじんまりとした神社である。



赤鳥居列
入口の石鳥居から本殿までの間は赤い鳥居が連なり稲荷神社と見間違える。 先の海神社と同様に海の神のようである。



本殿



垂水漁港




遊女塚

この宝篋印塔は建武4年(1337年)士忠禅師によって建立されたもので、高さ4m余りある大きなものである。 垂水沖で船から落ちて溺死した遊女の供養塔と伝えられている。 〔神戸市垂水区仲田町〕


遊女塚





五色塚古墳
(千壺古墳)


古墳入口のモニュメント
古墳時代中期(4世紀末〜5世紀初頭)の築造とされた前方後円墳。 被葬者は定かでないがこの地を治めた豪族の首長とされる。 淡路島の五色浜から葺石を運んで積み上げたと言われ この名が付いたとのこと。



五色塚古墳全景
前方部の南西部分より見る(全長 194m、高さ 18m、後円部直径 115m)



古墳北側の後円部
写真では分りづらいが三段積みで斜面全面に葺石が敷かれている。



古墳前方部の西側
綺麗に並べられた埴輪と葺石。 前方部の葺石は二段積みで後円部に比べ何故か少し黒っぽいようである。



古墳前方部の西側


古墳の後円部葺石
途中に段差があるのが分かる。



前方部の上から後円部を見る


後円部上部


後円部の上から前方部を見る
対岸には淡路島が右奥には明石海峡大橋が見える。 写真では前方部が平行に見えるが、実際は海側に行くほど広がっている。



前方部の円筒埴輪レプリカ


前方部の南端から明石海峡大橋を望む


五色塚古墳の傍らにある「小壺古墳」


小壺古墳
二段積みの円墳(直径60m)




赤い“よだれかけ”の地蔵石仏

山陽電鉄のガード脇に立っており、赤い“よだれかけ”を付け、まだ新しい花と水が供えられている。 元々お地蔵様は子供の守り神で、赤い“よだれかけ”は親に先立った子供や水子の供養のためと言われている。


赤い“よだれかけ”の地蔵石仏



明石海峡大橋

時間も午後4時となり夕日を背にシルエットに浮かぶ明石海峡大橋



旧 武藤山治邸
(旧 鐘紡舞子倶楽部)


明治40年(1907年)に鐘紡の中興の祖である武藤山冶(さんじ)によって建設されたコロニアル様式の住宅。 武藤が亡き後は鐘淵紡績(株)の厚生施設として使用された。 当初は舞子海岸に在ったが明石海峡大橋の架橋に伴い現在の地に移築された。 〔神戸市垂水区舞子町〕


旧 武藤山冶邸(南の海側から撮影)


南西側


東側
後ろは明石海峡大橋



ベランダ部分


正門(北の山側から撮影)


食堂


広間


貴賓室


応接室


広間


広間の窓


武藤山冶 胸像


階段脇のステンドグラス窓


階段


暖炉(マントルピース)

 
収蔵品










孫文記念館(移情閣)

大正4年’(1915年)に建てられた木骨コンクリートブロックで造られた日本最古の建造物で、「移情閣」と呼ばれ重文に指定されている。 中国風の八角形の建物で館内には孫文関連の資料が展示されている。 〔神戸市垂水区舞子町〕
:八角形の室内から見る8つの窓の景色(情景)が海から山へと移り変わるためこの名が付けられたと言われる。


元は華僑で貿易商 呉錦堂の別荘「松海別荘」内に建てられた楼閣をここに移設したものとのこと。 「松海別荘」は中国の革命家 孫文が神戸に訪れた時に歓迎会場となった所である。



「移情閣」と明石海峡大橋(奥上)
一見して六角形にも見えるため「六角堂」と呼ばれている。



移情閣








移情閣 室内






資料展示室







 
右:窓とカーテン
左:暖炉(マントルピース)



暖炉(マントルピース)


階段


窓から見える明石海峡大橋



明石海峡大橋

午後5時頃となり陽も更に落ち始め茜色に染まって行く


アンカレイジから見る橋桁


明石海峡大橋の垂水側アンカレイジ
まるでコンクリートの山である。



明石海峡大橋より見る「移情閣」




舞子砲台跡
(明石藩舞子台場跡)


砲台東部分
文久3年(1863年)に勝海舟の設計・指導により、明石藩によって築造されたもので、明石海峡を通過する黒船(外国艦隊)に備えたものとのこと。 台場には3台の大砲のモニュメントが置かれている。 対岸の淡路島にも「松帆砲台」があり挟み撃ちにしたと考えられる。 



全体的にW字の形で海に突き出している





中央部分
大砲のモニュメントが置かれている


 
大砲のモニュメント(左)
「史跡 舞子砲台跡」碑(右)



西部分




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