一乗寺(その1)

一乗寺下り松

【一乗寺木ノ本町バス停】→金福寺(与謝蕪村の墓)→舞楽寺 八大天王社宮跡→波切不動尊→石川丈山の墓→一乗寺下り松→(その2)

2013年10月03日 晴れ 22,037歩



金福寺(こんぷくじ)
 
境内への石段
貞観6年(864年)に慈覚大師により創建、慈覚大師が刻んだ聖観音菩薩が祀られている。 俳諧の聖地としても知られ、松尾芭蕉が度々訪れている、本堂の後ろを少し登った処に「芭蕉庵」がある。 また、舟橋聖一の小説「花の生涯」で知られる村山たか女が晩年には尼として入寺し「妙寿尼」と名乗り、ここで生涯を終えた。 境内の裏山には「村山たか女」の参り墓がある。〔京都市左京区一乗寺才形町〕



山門


本堂と前庭(芭蕉庵への登り道にて)

 
前庭の石灯籠


本堂縁側の猫


芭蕉庵

金福寺を訪ねた与謝蕪村は「芭蕉庵」の荒廃を嘆き、安永5年(1778年)に再建したとされ現在に至っているとのこと。































墓石・石碑の数々

芭蕉句碑

うき我を さびしがらせよ かんこ鳥



芭蕉碑
与謝蕪村と門人の樋口道立(どうりゅう)によって建てられた。



「村山たか女」の参り墓
本墓は、ここから少し北の園光寺にある。



「穎原(えばら)退蔵」筆塚
明治から昭和にかけての江戸文学・俳諧の研究者で京都大学教授。



「青木月斗」の墓
明治から昭和にかけての大阪出身の俳人、正岡子規・与謝蕪村に学んだ。



「吉分大魯(よしわけたいろ)」の墓
江戸中期の俳人で蕪村の門下生。



「森川曾文」の墓
江戸から明治にかけての四條派画家。



翁之水

金福寺を再興した鉄舟和尚が芭蕉をもてなしたと言われる湧水。


翁之水


白髪苔






「与謝蕪村」の墓

「与謝蕪村」の墓(右)
弟子の「呉月渓(呉春)」・「呉景文」の墓(左奥)



「与謝蕪村」の墓(左)
右脇には弟子「江森月居」の墓が寄り添っている。



「呉月渓(呉春)」・「呉景文」の墓
江戸中期の画家、後に蕪村の弟子となる。 京都 東洞院に居を構えたので、その系統を四條派と言われている



金福寺 本堂内

本堂 日除け


本堂内から前庭を見る


本堂前庭と風に吹かれる日除け


本堂前庭


芭蕉の旅姿(右)
蕪村の像(左)


 
蕪村筆の芭蕉像(左)
井伊直弼の懐刀 長野主膳像(右)



村山たか女によって祀られた「福巳塔」


「福巳塔」に納められた蛇


村山たか女の位牌


たか女作、牡丹の刺繍がされた壇引
壇引:仏壇の前に垂らす布



たか女 生晒(さらし)の図


金福寺 弁天堂

文化6年(1809年)に、たか女によって建てられた


「辨財天女」扁額


辨財天


金福寺 身代わり地蔵尊

子供の受難 身代わり地蔵尊



舞楽寺
八大天王社宮跡 碑


比叡山麓七里の産土神に一つ 〔京都市左京区一乗寺松原町〕


「舞楽寺 八大天王社宮跡」碑



波切不動尊

金福寺から住宅地を抜け200mほど行った所にあり、周りは深い杉林に覆われている。〔京都市左京区一乗寺松原町〕


不動堂の中には、先月の台風18号の影響か、裏山の土砂崩れにより大量の土砂が壁を破り入り込んでいるようである。 台風18号は多くの文化財などに被害をもたらしているようである。



「石川丈山の墓」への道

住宅地を歩いていると地元も方から石川丈山の墓が近くに在ることを教えていただく。 不動堂の手前の分岐を登って行くと在るとのこと。 どの程度の登りになるか聞いていなかったが、行ってみることにする。





石川丈山の墓
 
石川丈山の墓(左奥)の石段下には、弟子の平山仙桂の墓(右)がある。 丈山は徳川家に仕える武士 石川信忠の長男として生まれる。 大坂夏の陣で軍功を挙げるが、家康の命に叛いたため家康の叱責を受け浪人となり、儒学を学び文化人へと変貌を遂げる。 東本願寺の渉成園や京都田辺の一休寺などの庭は丈山の手によるものである。〔京都市左京区一乗寺松原町〕


石川丈山の墓


石川丈山の墓
晩年には、ここから北へ400m程の所にある詩仙堂(丈山寺)を建て、終の棲家とした。



石川丈山の墓(部分)



一乗寺下り松

宮本武蔵 一人と吉岡一門 数十人とが決闘をした伝説の地で知られる。 現在は閑静な住宅地となっているが、決闘が行われた頃は殺伐とした原野であったと思われる。〔京都市左京区一乗寺花ノ木町〕

 
「宮本・吉岡 決闘之地」碑(左)
「大楠公 戦陣跡」碑(右)



一条 下がり松
現在は、四代目となる“下がり松”。少し枯れ始めているようである





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