関ヶ原(その2)

天下分け目の関ヶ原

(その1)→平塚為広の碑→大谷吉継の墓大谷吉継 陣跡→若宮八幡神社→高札場跡→常盤御前の墓弘文天皇陵候補地→戸佐々神社→不破関跡→福島正則 陣跡→井上神社小早川秀明 陣跡→西首塚藤堂高虎・京極高知 陣跡→至道無難前師誕生地【JR関ケ原駅】

2013年08月02日 晴れ 33,834歩



藤古川ダム







平塚為広の碑(西軍)

平塚因幡守為広の碑
垂井城主であった平塚為広は大谷吉継隊に加わり、反応(寝返り)した小早川隊と戦うが、小早川隊に呼応し反応した脇坂隊にも攻撃され討死した。


 
平塚為広 碑(左)
平塚為広旗紋(右)




大谷吉継の墓(西軍)

大谷吉継の墓

 
大谷吉継の墓:五輪塔(左)
大谷吉継 旗紋(右)





登山道



大谷吉継 陣跡(西軍)

大谷吉継は小早川秀秋の反応(寝返り)を予見し、小早川が陣を置く松尾山の正面 藤川台(若宮八幡神社)に陣を置き小早川隊の動向を見守ったと言われる。


正面奥は小早川秀秋が陣を置く松尾山

 
「大谷吉隆(継)陣所古跡」碑(左)
大谷吉継 旗紋(右)




若宮八幡神社

参道入口鳥居
参道にはJR東海道線の踏切があり、珍しい光景となっている。



社殿
弘文天皇(大友皇子)を祭神としているが、創建の時期については定かではない。 この辺りは壬申乱(672年)で戦場となった所で、壬申乱後に創建されたものと言われる。 境内は踏切を渡り参道を登った所にあり、先ほど訪ねた大谷吉継の陣が置かれていた。




高札場跡

ここは、中山道の関ヶ原宿と今須宿との間にあり「間の宿」と呼ばれ茶屋などが軒を並べ旅人で賑わったと言われる。



黒血川

ここ関ヶ原の山中は壬申乱で大伴皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)が戦った所で、戦闘のの流血で川に流れ込んだ血によって、川が真っ黒に染まったと言われる。 その後もこの地は南北朝時代の「青野ヶ原の合戦」、安土桃山時代の「関ヶ原の合戦」などで重要な位置を占めることになる。



鶯の滝

落差5mの滝で、平坦地に掛かる滝としては珍しい。



常盤御前の墓

常盤御前の墓(後ろは芭蕉句碑)
奥州平泉に向かった牛若を追ってこの地を通った常盤御前は土賊に襲われて息を引き取ったと言われる。 哀れに思った山中村の人々は常盤御前えをここに埋葬したと伝えられている。



二つある墓石の一つは常盤御前に同行した牛若の乳母の千種か? 墓の後ろには、ここで詠んだ芭蕉の句碑が建てられている。

義ともの 心耳似多里 秋乃可世
(義朝の 心に似たり 秋の風)
               芭蕉




国土地理院 水準点



自害峯の三本杉
(弘文天皇陵 候補地)


自害峯の三本杉への登り口
壬申の乱で敗れ大津の長等山で自害した大友皇子(弘文天皇
)の頭が埋葬されていると伝えられており、宮内庁より弘文天皇の御陵の候補地に認定されているとのこと。 墳墓には三本の大杉が植えられている。

:弘文天皇は明治になって第39代天皇に追称されている。 現在、弘文天皇陵は長等山の麓に定められている。


三本の大杉


大杉を見上げる



矢尻の池(井)

壬申の乱で大友皇子軍の兵士達が水を求めて矢尻で掘ったと伝えられる井戸。


井戸



関の藤川(藤古川)

伊吹山の山麓 藤川の池を源流に関ヶ原を南北に流れており、このため「関の藤川」と呼ばれている。 壬申の乱ではこの川を挟み大友皇子軍と大海人皇子軍が開戦し、関ヶ原の合戦においても大谷吉継が右岸に陣を敷いたとされている。



不破関西城門跡
と戸佐々神社


不破関西城門跡
藤古川を渡るとすぐ左に竹藪がある、ここは中山道 不破関の西端に当たり西城門が設けられていた。 傍らには関の守り神として戸佐々神社が祀られている。


戸佐々神社



不破関・不破関守跡

ここは、古代律令制(大宝令 701年制定)のもとで東国に対する防御を目的に設けられた「三関※1」の一つで、「東山道※2」に設けられた不破関跡である。
※1:他に東海道の「鈴鹿関」と北陸道の「愛発関(あらちのせき)」
※2:近江国と東北の陸奥国を結ぶ街道





不破関守屋敷跡


芭蕉 句碑

秋風や 薮も畠も 不破の関

             芭蕉



不破関々庁跡

かつては関庁の敷地内の中央を「東山道」が通り、その北側に関庁の建物があったとされる。 敷地内には壬申乱の時に大海人皇子が兜を掛けた石と、靴を脱いだと伝えられている石がある。


大海人皇子 兜を掛石


大海人皇子 兜を掛石


大海人皇子 靴脱石


大海人皇子 靴脱石



福島正則 陣跡(東軍)

春日神社境内
賤ケ岳の七本槍の一人、母が豊臣秀吉の叔母であったため小姓として秀吉に仕え、天正10年(1582年)には山崎の合戦で明智光秀が逃げ込んだ勝龍寺を攻撃するなどの勲功を挙げた。



「関明神前 福島正則陣所古跡」碑
関ヶ原の合戦では東軍の先鋒を務めることになっていた。 しかし、松平忠吉・井伊直政に抜け駆けされ激怒するが、正面の西軍 宇喜多隊と激戦を繰り広げたとのこと。


月見の宮大杉と春日神社々殿
大杉は樹齢:800年、目通り:5.8m、樹高:25m


 
月見宮大杉(左)福島正則 旗紋(右)


鐘楼



関ヶ原町 マンホール

中央に「町章」、周囲に町の花「梅」・町の木「杉」・関ヶ原合戦の「兜」がデザインされている。



井上神社

参道入口


境内入口鳥居
先に訪ねた「若宮八幡神社」には祭神として弘文天皇(大友皇子)が祀られていたが、ここ「井上神社」には天武天皇(大海人皇子)が祀られている。


境内


拝殿


本殿



松尾山登山口

標高293mの松尾山々頂には東軍に反応(寝返る)した小早川秀明の陣跡がある。


登山道の要所には黄色に染められた小早川の旗が立てられている。



小早川秀明 陣跡(東軍に反応)

松尾山々頂 小早川陣跡
西軍 小早川秀秋は1万5千の軍勢を率いここ松尾山に陣を置いた。 秀秋は家康との間で開戦後は東軍に反応することを約束していた。 しかし秀秋は戦況を見守るのみで一向に動くことは無かった。 見るに見かねた家康は小早川の陣に鉄砲を打ち込み攻撃を催促したと言う。 止む無く秀秋は味方であった西軍 大谷吉継陣に向け攻撃を始めたとのこと。 この攻撃を機に戦況は西軍から東軍優勢に変わり、東軍の勝利を決定付けたと言われる。



松尾山々頂 小早川陣からは東西両軍各隊の動きが一望出来る。


関ヶ原合戦陣形図【現地説明板】

 
「松尾山 小早川秀秋陣所古跡」碑(左)
小早川秀秋 旗紋(右)



西首塚

西首塚


供養堂

 
「関ヶ原古戦場 西首塚」碑(左)
「柴ノ内 関ヶ原合戦々死者胴塚」碑(右)


祀られた石塔群



藤堂高虎・京極高知 陣跡(東軍)




「柴井 藤堂高虎・京極高知 陣所古跡」碑(左)
京極高知 旗紋(中)
藤堂高虎 旗紋(右)


藤堂・京極 陣跡は関ヶ原中学校前にある



至道無難前師誕生地
(関ヶ原宿脇本陣跡)

「至道無難前師誕生地」碑(右)



八幡神社

境内入口鳥居
天正16年(1588年)にこの地の領主 竹中重門が大分県宇佐八幡宮を勧請したのが始めとされる。



拝殿


本殿




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