関ヶ原(その1)

天下分け目の関ヶ原

【JR関ヶ原駅】→松平忠吉・井伊直政陣跡→東首塚→田中吉政陣跡→徳川家康陣跡→貴船神社→黒田長政・竹中重門陣跡→決戦地→島左近陣跡→石田三成陣跡→小池神明神社→島津義弘陣跡→開戦地→小西行長陣跡→宇喜田秀家陣跡(天満神社)→(その2)

2013年08月02日 晴れ 33,834歩



慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、関ヶ原において石田三成が率いる西軍と徳川家康が率いる東軍とによる天下分け目の合戦が行われた。 しかし実態は、元豊臣の家臣による内部分裂による覇権争いであったと言われる。



JR 関ヶ原駅




松平忠吉・井伊直政 陣跡(東軍)

東軍の先鋒は福島隊が任されていたが、後方から松平・井伊隊が抜け駆けし正面の西軍 宇喜多隊を攻撃し、それを見た福島隊も参戦し合戦の火蓋が切られた。 また、歴史を遡ると関ヶ原の地は壬申の乱(672年)で大友皇子軍(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)が戦った所でもあり、関ヶ原は天下分け目の戦いが幾度となく行われた重要な位置をしめている。


「茨原 松平忠吉・井伊直政 陣所古跡」碑
松平忠吉 旗紋(左)
井伊直政 旗紋(右)



東首塚

東首塚門
合戦に勝利した徳川家康が床几場において西軍の首級(しるし/しゅきゅう)の首実験をしたあと東軍・西軍の戦死者を東西2ヶ所に分けて首や遺骸を埋葬したと言われる。



供養堂


東首塚全景とスダジイの古木


東首塚と「史跡 関ヶ原古戦場 東首塚」碑


供養塔(宝篋印塔)


「関ヶ原戦役陣没者追善供養」


首洗いの古井戸
首実験を行う首級は、ここで付着した血や土が洗われた。



首級墳碑
文化14年(1817年)に関ヶ原年寄「古山兵四郎」によって首塚の保存を願い建てられた。




田中吉政 陣跡(東軍)

田中隊はここから兵を進め、笹尾山より討って出る石田隊に向かって激突した。 石田三成は開戦 6日目には吉政の兵の手に落ちた。


「田中吉政陣所古跡」碑



徳川家康 最後の陣地(東軍)

床几場(しょうぎば)
家康は、ここで陣頭指揮に当たり、部下が取ってきた首実験を行った。



「床几場 徳川家康進旗験首處」碑


床几場 現地説明板



貴船神社

鳥居と拝殿(奥)
かつて陣場野のこの辺りは、長年水不足に悩まされてきたが、大正15年(1926年)に水の汲み上げ工事を行い水不足は解消された。 村人たちは感謝し水の神である京都貴船神社の祭神「高オカミ神」を勧請したとのこと。



拝殿


本殿



黒田長政・竹中重門 陣跡(東軍)
岡山(丸山)烽火場
(ほうかじょう)

黒田長政・竹中重門 陣跡を望む
戦闘開始の時には、ここで東軍の狼煙(のろし)が揚げられたと言われる。



竹藪の中を登る


岡山(丸山)烽火場


「関ヶ原古戦場 岡山烽火場」碑(左)


「丸山狼煙場 黒田長政・竹中重門陣所古跡」碑


竹中重門 旗紋(左)
黒田長政 旗紋(右)


岡山(丸山)烽火場から望む関ヶ原古戦場
松尾山(小早川秀秋 陣)右寄り手前





「クマ出没注意」の警告版


ここにも「クマ出没注意」


クマ捕獲用の仕掛けか?


八幡池



決戦地

笹尾山(左手前) 決戦地(右)


笹尾山
石田三成 陣(右上)
島左近 陣(左下)



決戦地(左)
「関ヶ原古戦場 決戦地」碑(右)




島左近 陣跡(西軍)

笹尾山々麓

 
二重に設置された竹矢来(左)
島左近 旗紋(右)





笹尾山々頂への登り



石田三成 陣跡(西軍大将)

笹尾山々頂 石田三成陣


笹尾山 石田三成陣から望む関ヶ原古戦場。 ここからは関ヶ原の戦場が一望できる絶好の場所となっている。

 
石田三成 旗紋「大一大万大吉」
「関ヶ原古戦場 石田三成陣地」碑
旗紋「大一大万大吉」は、源平の時代に木曾義仲を討った石田次郎為久の紋であったが、三成が気に入って使用したとされる。 この意味は「一人は万民のため、万民は一人のために尽くせば、全ての民が幸せになる」ことを表す。




小池神明神社
(島津義弘 陣跡)


境内入口鳥居
渇水時の雨乞いのために秋葉神社を勧請したとされるが、創建等については定かでない。 境内は西軍 島津義弘の陣地として使用された。



境内(拝殿と本殿)


拝殿


本殿



島津義弘 陣跡(西軍)

合戦も終盤になり西軍の敗戦が明らかになったころ、東軍に包囲された島津隊は敵中突破による退却を試みる、いわゆる「島津の退き口(のこぐち)」である。


「小池 島津義弘陣所跡」碑


「小池 島津義弘陣所跡」碑(左)
島津義弘 旗紋(右)




関ヶ原合戦400年記念平和の杜




「関ヶ原合戦400年記念平和の杜」碑


モニュメント(1)
フランスの世界的石彫家 ピエール・セーカリー氏と日本の石彫家坂井達省氏により製作されたものとのこと。関ヶ原の合戦のイメージとは異なるが?



モニュメント(2)



開戦地

東軍の先鋒は福島隊が任されていたが、後方から松平・井伊隊が抜け駆けし正面の西軍 宇喜多隊を攻撃し、それを見た福島隊も参戦し合戦の火蓋が切られた。 


「関ヶ原古戦場 開戦地」碑(左)
「国史跡関ヶ原古戦場 開戦地」(右)



左から 宇喜田秀家(西軍)・福島正則・松平忠吉・井伊直政(東軍)



小西行長 陣跡(西軍)




「天満山北 小西行長陣所古跡」碑(左)小西行長 旗紋(右)



天満神社
(宇喜田秀家 陣跡)


参道入口鳥居


境内


拝殿



宇喜田秀家 陣跡
(西軍 副大将)


宇喜田秀家 陣所跡


「宇喜田秀家公陣所跡」碑(左)
宇喜田秀家 旗紋(右)



「天満山南 宇喜田秀家陣跡」碑




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